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嘉永2年(1849)12月24日
新潟県三条市上町の生まれ。
藤七23歳の明治4年4月弥彦神社に詣で、30歳まで結婚しないこと,40歳まで絹物を身にまとわないで頑張ることを誓い、北海道での成功を祈願し,新潟港から松前通いの和船で渡道した。明治5年5月1日札幌の創成川畔に小間物商を開業し「商道は正道であり、商(あきない)は飽きないことである。そして、商売は自分だけの為にあるものではなく、人の為に成るものでなければならない。」とし信用と繁盛をもたらした。
明治の激動期に裸一貫で渡道し、その生涯を信用と誠実と不屈の努力で北海道の商業界に丸井今井の王座を築き上げ、多くの人材を養成しては開拓途上の枢要の地にそれぞれ独立営業させ、北海道の消費流通業界に大きな貢献をし、また密かに社会公共事業に尽くして、しかも官爵の栄達を望まなかった今井藤七は北海道に偉大な足跡を残して大正14年10月24日 東京目白の自邸に於いて眠るが如く波乱にとんだ生涯を閉じた。藤七67歳であった。
11月3日郷里三条の菩提寺定明寺に於いて本葬を営み祖先累代の墓地に眠る。
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丸井今井百貨店二代目
今井雄七 |
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明治11年(1878)4月30日
藤七の弟武七の子として三条で生まれる。藤七翁に子供が無い為、養子となる。慶応義塾卒業後、渡米し丸井今井に新風をもたらせ、百貨店開設に大きな役割を果たす。明治、大正、昭和の変換極まりない三時代に丸井今井の近代化と発展を計るかたわら母校慶応義塾理事、三条市商工会議所会頭の公職を歴任、郷里三条市に対しては三条武徳殿を建設寄贈するなど公共事業に尽力し、北海道では開拓の一翼を担った。就任後26年の長きにわたり、創業者の意を体し、大正、昭和にかけての経営に大きな功績を残した。昭和19年12月19日、東京目白の自宅で喉頭がんの為死去。雄七66歳であった。苛烈な空襲下、葬儀は自宅に於いて近親者のみで告別式を行ない、郷里三条菩提寺定明寺で本葬を営み、関係会社全従業員並びに相談役ほか遙かに哀悼追慕の黙とうを捧げた。
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丸井今井百貨店三代目
今井道雄 |
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大正4年(1914)1月24日
札幌の生まれ。北海道百貨店業界の雄東京商科大学(現一橋大学)卒業後、大阪大丸百貨店で経営の基礎を身につける。二代目雄七のあと44年の永きにわたり丸井今井グループの総師として活躍。札幌商工会議所会頭・札幌観光協会会長など北海道経済の重鎮として北海道の発展に貢献。北海道を想い、店を思い、人を想いつづけた。平成2年9月4日札幌医大病院で入院中心不全のため死去。享年75歳葬儀は会場に入りきれないほど溢れた参列者の献花が粛々と行なわれ長蛇の列がつづいた。
三代目道雄氏の誕生を祝い、三条の六角凧250枚凧を発注。
丸井今井年譜
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明治40年(1907)4月21日
新潟県三条市一ノ町の生まれ。
旧制三条中学校(現在三条高校)卒業後、昭和3年東京写真専門学校を卒業。オリエンタル写真工業に入社して写真部に勤務。同25年に日本写真家協会を創設し、33年にはその会長に就任、以後20年余りもその重責を担った。昭和23年から建築写真集を多々出版し、日本写真家協会年度賞、芸術選奨文部大臣賞、通産大臣賞を受賞。同44年に紺綬褒章、同47年には紫綬褒章、同49年には写真集「伊勢神宮」で毎日芸術賞、同53年には勲三等瑞宝章を受章。
平成2年、写真界初の文化功労者に認定されるとともに、三条市の名誉市民、またこの年、開館した東京都写真美術館初代館長にも。それまで日大芸術学部教授として後進の育成にも貢献し、まさにわが国の写真界の頂点に立つ一人だ。2000年7月21日、肺炎のため93歳で死去。死亡叙位叙勲により正四位、勲二等瑞宝章を受ける。日本の写真界では故木村伊兵衛と並ぶ巨匠として世界各国に知られている。
Yahoo百科事典渡辺義雄
三条市出身著名人
(名誉市民)三条市
三条市人口と世帯数
平成23年2月28日現在
人口: 104,254人
世帯数:34,430
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(三条)空き店舗
(お寺)旧三条市 |