三条の生んだ日本的紙塑人形創始者

鶴巻三郎



“ふるさと三条を思う心”は強く、
三条を生涯離れず創作に打ち込む姿は「ふるさとの人に
自分の作品を見てもらいたいから・・・・」と語る


 

製作の経緯

昭和15年に初受賞ですから、戦前からずっと創っていました。私の家は、先祖から代々“造り酒屋”でしたが、戦争が近づくにつれて酒を売る問屋さんがばたばた倒れ、うちも商売が窮屈になってきまして以前のような酒造りはできない。そんな時、以前から創作のひとつとして能面に興味を持っていました。といっても戦後で物がない時代、実物の能面など見たくても無理なので図書館へ行って本の写真を見て模写するのせめてもの方法でした。その時は、それが能面だと・・・・。ところがのちに、観世流の方から能楽師にとって能面と言えるのは唯一、六百年ほど前に作られたいくつかの面だけ。それを形、彫り等すべて細部にいたるまで違えず写すことを代々伝承していくということ。私の描いた創造と違うのに驚きました。その他にも華道、茶道、書、やきもの、何でも研究していました。それから、広川松五郎先生が三条に来られた時、「狭い世界でいろいろ研究しながらの創作ではダメだ。」と言われ、先生の勧めで上京、美術学校(東京芸術大学)の広川教室で三年間ろうけつ染を学びました。といっても広川松五郎先生は具体的に何をどうすると言うような事は一言も教えず、「見て、学べ」でした。
紙塑人形誕生
広川松五郎先生から学んだ後は、ろうけつ染をやるつもりでいました。けれど先生は私に「平面より立体、しかも人形作家第一号になれ」と言われたのです。そのころは人形作家という言葉も存在もなく、あるのは人形師だけ。「人形師で終わるのはもったいない、人形師は伝統伝承で同じ物を作るが、人形作家は世界でたった一つのものを創る、それが人形作家だ」と。先生のお蔭で、昭和二十一年の日展に日本第一号の人形作家として出品し、その作品で初めて特選を受けることが出来ました。戦後の何もない時代に、このような和らかなものが現れたと言うことの大きな反響と、高い評価を頂いたのだと思います。
創作を続けられる秘訣
私は食べ物に好き嫌いがたくさんあります。“これは体にいいという様な食べ物”を食べたり、“体に良い生活”はしたことがないし、したいとは思わない。若いときからそうです。食べたい時に食べ、眠りたい時に眠り、起きたい時に起き、創りたい時に創る。家内には迷惑かもしれませんが、何者にも拘束されない気持ちが自由であること、これが元気の素。
好きな言葉はやはり、“創造、個性、そして自由”でしょうか。

紙塑人形創始者鶴巻三郎のプロフィール

明治41年2月3日 三条市に生れる
昭和10年 紙塑人形の制作方法を創始する
昭和12年 東京芸術大学教授広川松五郎先生に師事し工芸基本を学ぶ
昭和15年 越後工芸美術展に「雪の子」出品受賞 文部省主催奉祝美術展に「小松原」初出品
昭和21年 第二回日展に「せんこはなび」出品特選受賞
昭和22年 文部省より日展委員を嘱託される
昭和29年 第10回日展に「砂上」出品北斗賞受賞
昭和39年」天皇、皇后両陛下に「越後雪ん子春よ来い」を謹作献上
昭和40年 社団法人現代工芸美術協会評議員就任
昭和47年 天皇、皇后御来県に際し、「宵」を献上する。新潟県文化功労者知事表彰を受ける
昭和49年 三条市文化功労者表彰を受ける
昭和53年 新潟県美術家連盟理事長就任 勲五等双光旭日章授与される  昭和56年 鶴巻三郎作品集「人形有情」講談社より出版
昭和59年 第23回日本現代工芸展に「抱包」出品文部大臣賞受賞 新潟日報文化賞受
平成元年 紙塑人形創始者鶴巻三郎記念館を設立開館する
平成7年 米寿記念展を三条市歴史民俗産業資料館で開催
平成12年 雪梁舎美術館において個展「創造の道程」を開催
平成13年 第33回日展に「対話」を会員出品
平成17年6月12日逝去。(97歳)