この世は娑婆である

 

                                      五泉市 永谷寺 吉原東玄

                                    加茂法話会十月二十五日()

 

 

「皮膚の病気で死を考えます」 女性二十代後半

 

 私は先天的と後天的な皮膚疾患のため、長年ひきこもりとアルバイトを繰り返しています。化粧や服でそれと気付かれないように必死で隠して装うものの、心はいつもボロボロで、季節的なものであったり、調子が悪くなると、もう外出もできずに、死にたくなり、鬱になってしまいます。

 まあ今までさまざまな治療やなんやに両親も無駄にお金を使わせ、自殺未遂も繰り返し、生まれてこなければどれだけ楽だったろうかと、今でも今も思わずにいられません。

 2010年には名のある作家に、ある霊能者を教えて頂き伺ったところ、家系的な因縁を指摘されました。お祓いや先祖供養やそういうことも試し済みでもあります。

 今は早くこの体から解放されて自由になりたいと、漠然と人生の終わりにしか希望を見いだせなくなってしまいました。良くなるとか奇跡が起こるなどという可能性の泉は枯渇してしまいました。

 人生なんてあっという間とよく皆が言いますが、それでもあと何年か何十年か生きなければいけないとして、私はどう生きて人生を全うすればいいでしょうか?

 死んだ後、魔物にならないためにも(いや、もうなっっている気もしますが)、アドバイスを頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

 

  朝日新聞2012年9月1日付 別紙「be」内「悩みのるつぼ」より

 

 

 

  回答者 美輪明宏さん

 

 病気のことは私は医師ではありませんし、知識もありませんので相談には応じかねますが、精神的に発想の転換を図りたいとのことであれば、微力ながらお手伝いさせて頂きたいと思います。

 

 街中を行き交う群衆、普通にさりげなく見える人々が実は悩んでいて、苦しみ痛みを大なり小なり持っていない人は誰一人としていないのです。その差は表からは見えません。

 

 私も七十七年間のこれまでの人生で、長崎での被曝体験をはじめ、さまざまな怪我、大病を患い、耐え、克服してきました。1950年代に芸能人としてデビューした当時は、日本中から、化け物、変態、国賊と罵()()(ぞう)(ごん)を浴びせられました。

 そのころ、ボランティアで重度身体障害者の施設に行ったのです。目も耳も口も手足も不自由な子どもたち、その子たちが一斉に心の声で私を叱りました。

 

 「あなたの悩み? そんなものは悩みのうちには入らない。私たちは自力でトイレにさえ行けない。家族をはじめ、愛する人たちに自分の声で愛を伝えることさえ一生できない。その顔を見ることも、その声を聞くこともできない。このつらさがわかりますか? それに比べ、それらが全部できる貴方たちはなんて幸せなの!!

 私は背筋が伸びました。「世間の人々は皆幸せそうに見え、何故自分だけがこんな不幸なつらい目にばかり遭うのか……」と錯覚していたのです。

 

 彼らこそ、どん底に耐え、なお立派な精神を保つための修行をするために、また私たちを戒めるために送られた菩薩たちだったのです。

 

 世や人を恨み、嘆き、悲しみばかりのマイナスの波動を出し続けている人はマイナスの事物事象を呼び込むのです。逆に無理をしてでもプラスの想念を保ち、発し続けるとプラスの現象が集まってくるのです。これが「天は自ら助くる者を助く」という意味です。

 

 決して諦めなければ、必ずいつか朗報がもたらされるものなのです。

 

 心が好転しにくい場合には、例えば聖歌を唱ったり、お経などを唱えたり、優しく美しい昔の叙情歌や唱歌を唱ったり聴いたりすると安らかになることがよくあります。救いはあなたの考える文化の力にこそあると思います。ただし、占いや霊能者、宗教に振り回されてはいけません。用心しましょう。

 

 

 

 (しや)()は、サンスクリット語サハーの音訳で、我々が住む現実の世界のことである。サハーには「大地」という意味がある。漢訳では「堪忍」という訳語が充てられることから、この世は、生老病死や人間関係、さまざまな欲望など、煩悩に耐えていかなければならない世界であるという解釈もある。「忍土」「堪忍土」「忍界」などと意訳されている。

                  中村 元著『仏教語源散策』より

 

 

 釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。日日三時礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻