覚 悟 せ よ !

             平成二十二年八月二十六日(木)                 五泉市 永谷寺徒弟 吉原東玄 

 

 「覚悟」:    @ 過去の過ちに気付く。

           A さとらせる、さとす。

           B[仏]迷いから脱して真理をさとる。

           C[国]観念する、あきらめて心を決める。

 

 ー「さとり」とは、新しい真理を見つけられたのではない。この世の中のすべての出来ごとは、そのままでよかったということに気付かれた。人間の悩み、苦しみさえ、そのままでよい。ただ、それをいつまでもグチグチ愚痴っていることの愚かさに気付かれたのである。

 それを印度の言葉でブッダ(Buddha)という。日本語でいえば、「悟る」「解脱」という意味である。ー

「御誕生寺だより第四十三号」より 板橋興宗老師編

 

《毒矢の譬え》

 あらゆる苦を救済することについて、箭喩経(せんゆきょう)という経典に「毒矢の譬え」があります。それはおおよそ次のような話です。

 

 ある人が、毒矢に当たって苦しんでいた。彼の親戚や友人は、はやく医者にみせることをすすめたが、肝心の本人は、「私に毒矢を射たのは、バラモンの人か、庶民か、それとも隷民(れいみん)か。またその人の姓名は何というのか。その人は長身か短身か、皮膚の色はどうか。どこに住んでいるのか。それが判らないうちは毒矢を抜き取るわけにはいかない」と言い、さらに彼は、「この毒矢を使った弓は何か、どんな種類の弓か、その弓の弦は何で作られたものなのか、矢幹は何か、矢は何の羽を使用したのか、毒の種類は何か」などと質問し議論しているうちに、毒が全身にまわって、ついに死んでしまったという。

 この譬えは、仏教の現実重視の立場を端的に表しています。すなわち人生の悩みや苦しみを解決するのに、直接役に立たない不毛の議論は避けるべきであると教えています。

 私たちは、この現在の生において、この苦の人生を克服しなければならないのです。