菩提の花をを咲かすには、

平成17年6月17日 於加茂法話会
正法眼蔵第一 現成公案(宇宙を担う存在である)

一、
諸法の仏法なる時節、全ての個々は宇宙を担う存在であるが、区別して見るとすなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり衆生あり。

一枚の折り紙がある。子供たちに折り紙を配ると子供たちは、何色がいいと云い出す。

諸法の仏法なる時節、(みんなばらばらでいっしょ。)折り紙の表、色の有る世界からすると、ではなく、折り紙の裏、色のない世界からすると折り紙を裏にして配ると

二、 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく生なく、滅なし。

折り紙の裏、色のない世界からすると折り紙を裏にして配ると
子供たちは、色に対してのイメージ想像、(概念)よりも、今度は色紙何枚くれるの。配る方も貰う方も同じ枚数を貰う、配ることに気をつける。

三、 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

諸法實相の世界を一枚の折り紙と譬えると表の世界を色即是空と現し、裏の世界を空即是色と譬えたのである。確かに、本覚思想で始覚、本覚で説明できるが、道元禅師は『諸法の仏法なる時節、修行あり』学問的思想から、実践的展開に(理想と現実とのズレを解消した坐禅)仏行の上において解決されたのである。いまそのことを現成公案が語るのである。文章の一節だけ、とりあげて、本覚思想であると言うことはナンセンスである、起承転結の結びで、麻谷寶徹禅師と僧の問答は具体的な行動に現さなければ無意味であることを示されたのが現成公案の本意である。佛法をふたつに分けて諸法今有る(個々としての存在、みんなばらばら)、萬法無しで(尽界を担う存在、みんないっしょ)回互の世界を説かれた次に、仏道つまり不回互世界を説く、所謂、色是色、空即空を説くのである。

仏道は分別を超えて、なおかつ、向上、向下があるだけだ。
折り紙は、色の有る無しも大切であるが、折り紙を折って出来た物を子供達に聞くと子供の玩具になる。怪獣、お人形、鉄砲、花、色々の物に変化する。
私たちは、皆個性があり、みんなばらばら、みんないっしょ、だから、修行すると(生仏)仏になる、衆生済度の菩薩行だ。また、菩提の花が咲き、煩悩の草が生えるよ。すぐ煩悩の草が生えて菩提の花が咲かない。

四、 麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず、と。僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。

日常生活において、100円ショプに行くと人間の欲望に振り回されるのがよくわかる。
仏道では、少欲、知足を説く。不必要なものは買わない、必要なものを買う。必要なものを手に入れたら、最後まで使い切る。

レジのところ話、このような風景は日常よくあることであるが、赤の他人全く縁のない他人。と思っているから、怒りの心が生じ、見てみぬ不利をする。みんなバラバラの世界である。みんな一緒の世界からすると、自分の父母、祖父、祖母と思えば、腹が立たない、不思議なことである。一方では、腹が立ち、一方では、腹が立たない。分別心、(慮知心)がマイナスに動けば、怒りになり、われをわすれる。分別心がプラスに働けば、やさしさになり、慈悲心になる。慮知心から発菩提心そして菩提心発、仏法(慮知心から発菩提心)から、仏道(菩提心発)になるには、レジの所で、声を掛けてあげる。「どうぞ、ゆっくり」と、するとお年寄りは「にっこり微笑んでありがとう。」すると、レジの人も並んでいる人も『ありがとう』の一声で穏やかになる。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。煩悩の草がなくなり、菩提の花がみんなに咲きほこった。(空即空)だ。

私たちは、皆個性があり、みんなばらばら、みんないっしょ、だから、修行すると(生仏)仏になる、衆生済度の菩薩行だ。また、菩提の花が咲き、煩悩の草が生えるよ。

正寿寺住職 呉 定明合掌