子供の歴史4

子供の歴史4 @成長のきっかけ
at 2001 06/27 22:36 編集

芽を出すまで、とても時間のかかる子供たちがいます。緩やかに成長し、ある時期になると開花の準備が整い、大きくて美しい花を咲かせる子供たち、この15年でそういう子供たちを何人も見てきました。

もっと早く咲かせることもできただろうに、成長を遅らせたのではあるまいか、と反省する一方で、無理な指導をせずに良かったと自分を肯定する、そういう葛藤の繰り返しにめげないでいると、結構良いことが多いものです。

子供の成長に周囲の人々が合わせていくという感じですね。たとえば、言葉をなかなか覚えないとき、自然状態で何歳までに発語できればよいのかを知り、そのタイムリミットまでは気長に待ってあげると良いと思うのです。

ただし健康診断にだけは、きちんと連れていってくださいね。病気や障害のおそれがあるからです。特に聴力障害は気づかないことが多いのでご注意ください。ところで、何歳までにどれくらいのことができると正常なのでしょうか。

9歳児で50メートルを10秒で走れると速いのでしょうか、それとも遅いのでしょうか。漢字テストで80点ぐらいだと、良い点なのでしょうか、悪い点なのでしょうか。

様々な指標があって、その合格基準をクリアしていないと心配になる親心。一つ一つ解決していこうとする完全主義の考え方が、子供の自然な成長を阻害する危険性をはらんでいます。

なぜならば、そのような基準の一つ一つは子供たちにとって明確な目標になっていないからです。その段階で、クリアしていないことが親にとって心配であるのと同様に、突然現れた到達目標は子供たちを驚かせ悩ませるのです。

さらに、自分なりの自然な成長速度ではない到達目標は、意識的に自然状態を離脱するよう働きかけます。身体的にみれば、15歳前後になりようやく手首の骨が完成されると聞いていますが、児童労働の禁止規定は子供の健康を守るためにあると理解しています。

子供の自然な成長を社会全体で守るために、様々な保護規定があって、社会組織の使命はそれを遂行することであるはずです。それなのに、子供の成長を阻害しかねない様々な到達目標が突如現れる、そういうことが子育てのかなりの部分で存在しているのです。

もう少し子供たちに対して情報の開示を進めたほうが良いのではないかと考えます。公正さをもっともっと押し進めていかなければならないからです。地域文化の独自性を低下させる目的ではなく、地域ごとに流れている時間の意味を正しく理解してもらうためにです。

子供たちが自然速度で成長し、適正に開示された情報をもとに社会性を身につけ、成長速度を変化させることができるような柔軟性を、これからの新しい社会に期待しています。これについては後述させていただきます。




子供の歴史4 A成長の持続
at 2001 06/28 23:48 編集

あごを引いてみないと目標物からの距離や自分の位置を見間違いミスプレーの原因になります。子供たちの足もとは年々弱くなっているようです。体力測定に見られる基礎体力の低下、競技能力の低下は、かめない子供と同じように現在の子供の身体的特徴を表しています。

体力がないと必要以上の苦労をすることになり、物事に取り組んでも持続しにくくなります。それでも、障害を持つ子供や病気と共に生きている子供に比べれば、健常者の体力不足など低いハードルなのだから、乗り越えなければなりません。

ところが、子供の足もとを良く見てみると、足場そのものが弱いということにも気づきます。子供の自然成長力にとって逆風となり、同じ苦労をしても成果が出にくくなるような、ぬかるみに似た生育環境があります。

その逆風は多重の気流からなり一番大きなボリュームを持つのが、生存に関わり社会がそれによって規定されるような、環境・平和・経済・思想・法規・宗教であり、次に大きいのが規定された社会に順応するために必要な、勉強・技術・社会の求める精神的方向性・親の信念・社会的弱者性、最後に社会あるいは家庭が短期的に偏向する、対症療法的道徳・同教育・同家訓などです。

それに対して、子供たちの成長を持続させるような追い風があります。ところが追い風のほうは大きな気流を持ち合わせていない場合があります。最大のボリュームを持つのが、愛、もしくは愛を与えること、愛に感謝する幸福感。次に大きいのが、大きなバックボーンを持つ正義、もしくは正義への努力をしたことで得られる満足感。

最後に大きなバックボーンを持つ責任感、もしくは責任を果たそうとする自分への慰労の気持ちです。これらは経験則ですので、いずれは客観データーが必要になると思いますが、心理学もしくは新分野の倫理学の方法として実践していらっしゃる研究者が少数いられるようです。

ただ、そのような新しい学問においても、最初は研究者の思考からいろいろな仮説が立てられて、事実としての証明が必要なものから順次調査の対象、具体的には予算や時間が与えられるので、研究の価値を主張するための努力を惜しむことはできません。

成長の持続にお話を戻します。子供たちの忍耐力が無くなってしまった、とする意見は前述の理由で客観データーが必要です。忍耐力とは心の内側から出てくる精神力であり、それが全体的になくなってきたとする根拠は、体力が無くなってきたのと同じぐらい測定しなければわからないことだからです。

子供の成長力が弱くなってきたという前提では、いかにして成長力を強めるかという議論になりますが、子供の成長力は弱まっていないという前提では、次の段階である成長の持続というテーマに向かって議論がなされると僕は考えます。

そして、僕は子供の先天的な能力までもが危険水準にまで低下しているとは考えていません。逆にもしもそのような状況になっているのであれば、それは環境保護と同じぐらい速やかに取り組まなければならないでしょう。

歴史上もっとも危険な状態であった戦時中、原子爆弾による放射能汚染がありました。人の遺伝子に直接のダメージを与え、その子孫までもが正常に育たないような兵器がありました。

日本全国に投下されればそれは日本国民の全滅を意味し、世界中に投下されれば人類の滅亡を意味します。人を殺傷する兵器は他にもたくさんありますが、原子力兵器ほど大量殺戮し子孫に後遺症を残す兵器はありません。

生物兵器、化学兵器の中にもこの類のものがあります。戦争は既に歴史における必要悪のレベルではありません。歴史に終止符を打つものなのです。自然災害、病疫、集合的にみた人災も子供のたちの先天的能力を低くする力を持っています。

しかし、先天的であるということに集中して考えると、遺伝子の直接破壊ほど影響力の大きな要素はないと思います。現在の子供たちが被爆している、もしくは環境問題や原子力利用施設の影響で遺伝子的に損傷を受けている、といった事実がかなり広い地域で認められることが既にあります。

チェルノブイリ原子力発電所の事故です。先天的異常の原因になるような事故は必要悪の限度を超えていると、僕は考えています。子供の成長の持続に必要なことは、健康状態で生まれてくる権利を守ることです。

この権利が他の権利とぶつかった場合に、前述の多重な気流からなる子供の(人間性の)成長の持続という考え方が、役に立つのではないかと考えています。このページの片隅で、常に新しい考え方を記述していこうというのが「子供の歴史」の神髄ですので皆様よろしくお願いします。(著者)




子供の歴史4 Bどの子供にも
at 2001 07/02 21:38 編集

どの子供にも夢や希望があります。一人の胸の内にしまっておく人もいれば、他人に公言してはりきる人もいます。勉強の内的な動機もこれに似て、勉強自体に興味があり知りたいという気持ちはあるのですが、それが学校や家庭にそった内容ではないときに、なかなか理解と援助が得られずにどうしたらよいのか迷ってしまっている子供たちが大勢います。

理解と援助が得られないと、それを実現しようとする意思の力と、進路を変えようとするあきらめの気持ちの力比べになってきます。意思の力が強いとき、夢に向かって邁進することになり壁にぶつかることもあるでしょう。

そのたびに壁を乗り越える子供と、あきらめる子供にわかれて、とうとう夢を手にできるのです。あきらめるという言葉に「明める」の文字をあてる見方を、僕はインターネット上の知り合いからいただきましたが、根性がないからあきらめるということばかりではないのですね。

「明める」から学んだのは、後退することではなく、自分の適性や本当の希望を悟ることなのです。それは真剣に夢を追いかけるひとだけが手にすることのできる心地であり、中途半端な努力を賛美するものではないのです。

僕は法学部出身ですから一番わかることを述べさせていただくと、最初は司法試験に合格して法曹(裁判官・検察官・弁護士)になり、将来は総理大臣になりたいと思っている学生がものすごく大勢いるんです。

それがどんなに根性があっても突破できる試験ではないことを知ると、より合格しやすい資格へと向かうんです。つぶしが利くということなのですね。それで後悔する人と、しない人がいるのですが、前者は「諦めたひと」であり後者は「明めたひと」なのです。

これは司法試験に向かって努力を多くした人とそうでない人の差です。もともと努力を多くできる人は、試験に合格することが夢ではなく、何かもっと大きな夢の実現のために合格が必要不可欠なのです。

いいかえれば、何をしたいのかを持っている人なのです。その何というのは、司法試験合格を社会的ステイタスと考えることではなく、母子家庭の子供であれば、女性や子供の人権問題に取り組むことが多し、貧困な家庭に育てば、社会福祉や労働問題に取り組むことが多いのです。

どの子供にも夢と希望があり、その夢と希望が「やりたいこと」と結びついて、確実に実現できれば僕たちの仕事も成功したと言えます。いわゆる受験塾・予備校の考え方には、そのような夢と希望をかなえるためには、多くの場合有名一流校に合格することが必要だから、それを勉学面で支援するという気持ちが含まれているような気がします。

ただ、夢と希望を実現するために、必ずしもエリートコースを歩む必要はありません。たとえば、人を喜ばせる芸術家になりたいという子供が、芸大を卒業する必要はないでしょう。

そうするためには優れた教員のいる学校で学ぶ必要がある、との考えもあるかも知れませんが、もともと開かれた学校でないことが、今日の学歴社会を生み出した原因でもあるのですから。

たしかに、先人の夢と先人の業績および優れた人材は、一流校に信託・保管されています。そこに入学しないと、知ることさえできない伝統もあるでしょう。夢と希望の独占。きつい言い回しですが、資本や市場だけではないんです。

独占状態を解決しない限り、夢と希望は「諦める」につながってしまいます。法学関係の学びと仕事から得られた経験です。法は、条約・憲法・法律・政令・省令・規則・条例という順番に、上位の法規に下位の法規が従う形を取っています。

なぜ子供たちが成長する上でそのような方法を取らないのでしょうか?いろいろな理由がありますから、この角度からも考えて行かなくてはなりません。僕の夢は、どの子供にも夢があって、それをかなえるために支援をするというのではなく、子供たちが夢に向かって胸をふくらませ、その自然な努力過程においてまた夢を見つけ、自分にとって快い人生を送ってもらえば幸い、それぐらいの現実的な夢なんです。

絵本を書く方々と、政治をする方々、アプローチは全然違いますが、みなさんどうすればもっと良くなるのかをめざしていられるご様子。僕も、そんな人々と変わらない小市民。あきらめずに(諦めずに)がんばっていきたいと思います。




子供の歴史4 C他人の利益になるここと自分の自主性
at 2001 07/04 22:02 編集

「他人のために役に立つということ」と、その相手方が「自分のやりたいことをやるということ」は、対立した概念でしょうか?もし、対立した概念ならば、どのような納得のいく考え方があるでしょうか?

子供たちの気持ちが傷つくかも知れない重要な課題です。学校で、清掃係をするとき、掃除の目的は教室をきれいにして、自分と先生を含むみんなが気持ちよく清潔に、一日を暮らすということと、公共物を大切にして、長く使える状態にしておくということがあげられます。

清掃係の仕事を通して、目的外の利益が生じます。たとえば義務や責任を遂行する精神が育ちます。より上手に掃除をする工夫と、労働のつらさとともに気持ちよさを体験します。

他者のために何かをすることの尊さを学びます。清掃における「他人の利益」とは何でしょうか?同じ係りの他のメンバーのために、手の空いた人が手伝うということがあげられます。

共同作業で、余力のある人が自分に割り当てられた仕事を超えて手伝うことは、係り以外の人には何ら迷惑な行動ではありません。しかし、係り内部の人にとっては、手伝われる人の前述のような体験が失われることは、大きな損失になるかも知れません。

日常生活で良く見られるこのような「他人の利益」と「自主性」の関係は、両者が善意に基づいてなされているという点で、考える価値があります。さらにバランスを取ることもあります。

バランスを取るというのは、自分の仕事を終えた後、他の人の仕事ぶりを見ながら、適切なタイミングで手伝うということです。適切なタイミングは、手伝う人の忍耐と、手伝われる人の自主性の満足を、適度に読みとる能力が必要ですし、これは先天的に全ての子供たちが生まれ持っている能力であると、僕は考えます。絶対に手伝うことのできないルールがあります。

マラソンや野球のプレー中は、コーチでさえ走れない走者を手助けすることはできません。このようなとき目にする光景は、コーチがそばに駆け寄り身振り手振りを入れて檄を飛ばす光景です。

また、観客が選手と一体となって、立ち上がり声援を送るという光景です。清掃活動の最中では、動けなくなるほどに疲労してしまった、体調不良かも知れないメンバーに対して、声援を送ってもあまり役立たないでしょう。

この場合は、即座に休憩してもらい、他のメンバーがかわりになって、清掃を終わらせたほうが良いようです。このようなケースバイケースの判断は、日頃からのメンバー個々の体験や考えに基づく判断であり、最終的に判断するのは、疲労したメンバーにもっとも近い人か、リーダー格の人、

あるいは他人の利益になることを重んじる人か、自分の自主性を重んじるタイプの人ではないかと思います。それらに対して、バランスではなくどちらかの概念に統一したほうが、いろいろな意味でうまく行くという考えはどうでしょうか?

まず、他人の利益になることを基準にして考えてみると、平穏な清掃活動の時、割り当てられた仕事を全うすることがもっとも大事なこととされます。その仕事が終わったら、全員の仕事が終わるまで待機するを良しとします。

非常事態が起きたときには、バランスを取った場合と同様に対応します。ただし、この方法では、自分の自主性を育てるためには、割り当てられた仕事への真剣な取り組みを日頃から心がけなければいけません。

自分の自主性を基準にして考えれば、自分の仕事が終わった人は、積極的に他の人の仕事を手伝うのを良しとします。この場合、最初から他のメンバーの自主性を侵害することになりますから慎まなければならないことも多いでしょう。

逆に、緊急時において、助け合いの精神が大きく育ったメンバーの働きは、他の基準で考えられる水準を大きく超えることが予想されます。このように考えてみると、どの場合でも、うまくいくことがわかります。

しかし、現実には異なる判断基準の人が、その徹底度においても異なるのです。すると、バランスを取ることが必要であるにもかかわらず、バランスを取ることが万能ではないこともわかります。

主に、バランスが必要とされるのは、リーダーといえるでしょう。様々な考えを持つ人をリードするためには、適切なタイミングを読む力が大変重要です。しかし、平穏時においては他人の利益を重んじた考え方で、不都合な点はあまりないように思います。

緊急時においては、自分の自主性を重んじる考え方は、本当に頼もしいです。子供たちが誰でも備えている、この素晴らしい能力を、さび付かせないようにするにはどうしたら良いのでしょうか?

大きな意味では、他人の利益のために何かをすることは、自分の自主性に沿って行動することの中に含まれるという考えもできます。しかし、他人のためにする仕事の目的に、自分の精神的な満足を入れないでお考えください。

利益を得るのが他人であるか自分であるかに区別して考えないと、混同することがあるかも知れません。子供たちは純粋です。純粋であるからこそ、さび付いてしまった感情に傷つくのです。

「子供の歴史」はあくまで、子供の立場であります。人間のもっとも大切なものは、子供の心であるという考えで流れが進んでいることをご理解いただきたく、願いを持って、次回に続けさせていただきます。




子供の歴史4 D科学の発達と倫理観の変化
at 2001 07/06 22:24 編集

子供が生まれつき持っている心のバランス感覚、子供の適応力はなんてすごいのだろう、そうほめてあげる対象に自分も含まれているのですが、これほど激変する社会制度や科学の発達とそれに伴う倫理観の変化に対して、子供たちは振り回されながらもついて行けているのです。

しかし、ついていけない子供たちも大勢います。これは90年代の子供たちにより多く見られたのですが、社会変化の加速度という考え方を、以前提案しました。社会現象を点ととらえるのではなく、時間、量、質を持ったものととらえることが重要なのではないかということです。

変化を見逃さずにとらえるために必要なのは、静止した位置から見ること、移動した位置から距離感を保ってみること、遠方から見ること、近距離から見ること、個々の着眼点に忠実であることなどがあげられます。

もっとも、点の観測が重要なのは確かです。観測点が多くなればなるほど、正確な天気図ができるのと同じように、社会にもより正確な観測図が必要であると言えるでしょう。

大量なデーターを確率の高い理論によってシュミレートし、実測値との誤差を埋めて行けば、かなり正確な予報ができるはずです。このようなことが実現した場合、その経済的、政治的価値は計り知れないでしょう。

医学や科学的思考に基づく倫理の発展、個人から国際社会における差別や偏見の撤廃、現実に悩んでいる人たちの救済、などについて極めて大きな貢献をすると思います。

人類は次の段階を歩むとさえ言えるかも知れません。それをユートピアと考えるか否かなのですが、考慮しなければならないことが目的とは別にもう一つあります。

それは、目的の否定が過程で得られた利益をも否定するかどうかです。というのは、そのような正確な認識に基づく社会構築は、人々の多様性をともすれば否定することになるかも知れない、と考えて目的自体を否定したとき、その推進過程で得られるであろう、上述のような利益を活用することなく、それらを白紙に戻すということが、有意義かどうかという判断を結局はしなければならないのではないかということです。

確実に前者の方向、つまり社会現象の全学問的分析に向かっていると思われる現代、旧来の人間感情を重んじる人の数は減少していると思われます。子供を見守る中で、生来的なこころとそれを多様性と表現する人々の間には大きな差異が見られます。

子供たちにこれらを温かく教えていくこと、近い将来、その判断を迫られるであろう今日的状況の中で、可愛らしく育っている私たちの財産を、いかに愛し育てるかという大命題を今回は明記させていただきます。




子供の歴史4 E子供の自然成長力
at 2001 07/12 22:26 編集

生まれたての子供は、病原菌に対して母親譲りの抗体を持っています。しばらくすると、いろんな病気にかかります。代表的な病気に対する免疫を、自主生産できるようになるまで、ほとんどの子供は小児科通いが続きます。

このとき、どんな順序で病にかかり、どんな過程を踏んで免疫を獲得したのかが、とても重要なのではないかと思います。というのは、いかに遺伝子的にプログラムされているとはいえ、体外からの影響の全て、つまり、時間的・量的・質的な影響の全てを予測して対処しているのではないはずだからです。

そういう観点で調べられている研究者の方もいられるのではないかと、推測されます。免疫機構の構築、損害、修理などを重ねて、人それぞれの個性を持った身体ができ、大人になるころにはおおよそ完成します。

人の心の場合はどうでしょうか?他の動物に比べて、著しくか弱く生まれてくるのは、家族の愛情を注がれるためだという考えがあります。他者の利益になることをし、他者の迷惑にならないようにすることが、愛の形であるとすれば、生まれたての子供には愛がないことになります。

しかし、僕はこう考えています。か弱く生まれてくるのは、家族に愛を教えるためであると。いささか宗教的な発想といえるかも知れません。子供の自然成長力とは、僕の場合、遺伝子的に受け継がれた本人の出発点と、その出発時の手みやげを総合して考える言葉です。

そして、その出発点となる受精、さらにさかのぼり、父母の愛情交換及び二人の持ち合わせる個性と遺伝情報があります。それらをどんな目で意味づけするのかによって、子供の出発点は大きく変わると思います。

出発点ばかりは、子供の立場からは、受け入れる外はありません。しかし、ここで死者から生前のメッセージを聞き取ろうとした上野正彦氏の姿勢を思い出さずにはいられません。

子供は出生前からメッセージを送ってきているのではないでしょうか?つまり、子供はその誕生時に、受け継がれるはずの遺伝情報を取捨選択しているのではないか、という素朴な疑問に当たるのです。

遺伝情報は単に象徴的な意味で申し上げたのですが、自己の境遇に対する何らかの積極的な意思を持ち、受け入れるがままに受け入れるのではなく、改善を促すような生命活動をしているのではないかということなのです。

そんなはずはない、というところから見直すというのも、たまには良いのではないかと、僕は考えています。少なくとも、そのようなメッセージを聞き取ろうとする姿勢は価値のあることです。

上野氏の死者からのメッセージを聞き取る姿勢と、出生前の子供からメッセージを聞き取る姿勢は、共通の有益性があるはずです。それは、死とは何だろう、生とはなんだろうという問いかけとも関連してくるでしょう。

しかし、別個の課題でもあります。メッセージを聞き取ろうとすることは、自然界の全ての物事に対して、有効な手段です。ただ、それを知るために対象の特性を知ろうとする研究と、どういう伝達内容が聞きたいのかということとは、明確に異なる分野です。

子供の自然成長力とは、あるがままの姿で生まれてくる子供が、持って生まれたメッセージを、どのような内容で周囲に聞き取らせるかという、能動的な訴愛(造語)の働きかけのことを意味する言葉なのです。




子供の歴史4 F受け取る能力
at 2001 07/13 23:05 編集

子供たちのメッセージは実に豊富な内容です。しかし、私たち大人は、いつの間にか、子供のころに感じられていたいくつかのメッセージを、聞くことができなくなっています。

それでは受け取る能力とは、どんなことなのでしょうか。また、どのようにして身につけることができるのでしょうか。前回述べさせていただきましたように、子供は自然成長力を持って生まれてきます。

これを、造語で訴愛能力と名付けてみました。言語による意思表現のできない胎児・乳児が、自分を育ててくれるはずの大人たちに、笑顔や泣き声などで働きかける能力です。

これから当分の間、お世話になるというあいさつである、ということができます。このとき、周囲の大人たちには、受け取る能力が必要になります。受け取る能力は、同時に、どのように受け取りたいかということができ、大人の中に眠っているかも知れない潜在的な感受性の、どの部分を用いて子供に接するのかを、決定することなのです。

言葉にできない子供たちのメッセージを、言葉にできる大人たちが、どのように受け止めるかが、大変重要になります。たとえば、自然に親しむことを体得している人ならば、子供の声に似た自然の声を理解することができるでしょう。

生命を営もうとする、小さな存在に対して、いとおしく思う気持ちが経験されているからです。また、都会に暮らす人々でも、文化や民俗への関心の強さによって、新しい継承者の誕生を祝うために、素敵な昔話したり、子守歌を歌うことができるでしょう。

個人的な人間関係を大切にしてきた人は、友情や愛情を大切にするように、子供たちを尊重して育てていくことができるはずです。例をいくつか挙げさせていただきましたが、このほかにも、子供の訴愛のメッセージを受け止める形は、たくさんあると思います。

しかしながら、共通していえることは、自らが子供たちの自然成長力を喜ぶための、何らかの体験をしているということです。いま、自然・文化・民俗・友情・愛情という例を挙げさせていただきましたが、これらは皆、どこでも誰でも経験できるはずの凡例です。

経験したいという気持ちを、言葉やジェスチャーで表現することにより、昔子供であったときの感性を容易に取り戻すことができるものであると、僕は考えています。諦めるのではなく、明きらめることさえできれば、100%可能であると信じています。




子供の歴史4 G受け取る能力その2
at 2001 07/16 22:51 編集

人それぞれという言葉あります。これは、良いほうに解釈すれば、相手を尊重し、自分をも守るということでしょうか。しかしながらこの言葉には大きな落とし穴があります。

人は皆、食事をし、生きて、眠ります。人それぞれという言葉を用いて、子供の歴史を語ることは、僕にはできません。子供を見つめれば見つめるほど、大切で壊れやすい、守るべき財産が感じられます。

これを失って行くプロセスについて、これまで述べさせていただきましたが、子供たちの財産は、大人へと成長するために必要な素質であり、その素質は大きく育ったからといって、失うことが肯定されるようなものではありません。

無論、ほとんどの場合、それは失われるのではなく、忘れられるか、さび付くかのどちらかです。なぜなら、ほとんどの大人は、引き続き子供と接する機会がありますから、接するたびに思い出すことができるからです。

それならば、子供たちが誰でも持っているだいじな感性を、そのまま持ち続けられるような優しい社会作りをしなければなりません。受け取る能力とは、個々の大人が子供のころの貴重な感性を基礎として、人生経験をその上に積み重ね得られる、子供たちの訴えを聞き取り感じ取る能力であると、考えています。

それは、個々の大人の実社会における立場を考慮して考えるのではなく、本来のあるべき姿に立ち戻ろうとする努力のみが考慮されるべきです。いかに、逆風が吹こうと、その逆風を理由に子供たちに当たるべきではないはずです。

子供たちはこれから生きて行く上で、大きな壁に何度もぶつかることでしょう。その壁は至る所に存在しています。それは当然ですね。人が現れる前から、悠久の歴史が流れているのですから。

動物を見ても、植物を見ても、生き物は食事をし、生存空間を求め、ストレスを持っています。人間も例外ではないでしょう。しかし、人ほど、積み上げられた歴史のもとで、変えさせられている生き物はいないと思います。

子供が子供でいられる時間が減少し、現在の医学では生誕前からその素養に変更を加えることができるようになってきました。つまり、マイナス時間ですね。誕生日から年齢を数えるのではなく、誕生前のマイナス時間から、社会に出る準備をしようとしているのです。

大人たちの受け取る能力は、本当にそのように客観的なものに変わられて良いのでしょうか?人それぞれという言葉が、特別な哲学用語としてではなく、日常的な会話の中で簡単に語られていることの中に、今日の子供たちが置かれています。子供の自然的成長力と、極めて矛盾した客観判断に、危惧を覚えるのは考えすぎでしょうか。今回は、問いかけの形で筆を置かせていただきます。




子供の歴史4 H言葉
at 2001 07/18 23:23 編集

むかつくという言葉があります。これはどういう意味でしょうか。自分の思い通りに物事が運ばないとき、欲求不満を訴えるときの言葉でしょうか。いらいらするという意味なのでしょうか。

言葉の意味を考えるとき、必要なことがあります。それは、言葉を発している側、言葉を受け取る側、双方の相性と気持ちです。むかつくと言った場合、言葉を発している側は平常心であるはずがありません。発してしまった言葉は受け取る側の才覚によってどのようにでもとらえられます。

どんな言葉でも、発した側の影響よりも、受け取る側の姿勢により、好意的にも、敵意的にもとらえることができ、また、無視することもできます。つまり、言葉の中身を決めるのは、主として受け取る側の文化的な教養によるのです。その意味で、勉強をすることはとても大事なことだと思います。ところが、言葉に表さなくとも、共有できる雰囲気があります。

この雰囲気は、民俗や生い立ちにより、若干の差異があるとはいえ、ほとんど共通の意味を持つことができます。例えば、名詞がそうですね。山には、盛り上がりの頂点とか、苦労の頂点とか、そういう比喩的な意味があるにしろ、土砂が積もって周囲より高い地形をなしているということで、あえて詳しく厳密に補足しなくても、みんながわかる言葉です。

しかし、むかつくというのは、通常の意味合いでない何か特別な意味を、発した人か受け取る人が感じ取り、会話が成立しないときに生じやすいのではないかと、僕は考えます。

もう少し単純に述べさせていただけば、むかつくというのは、意思の疎通ができないときに感じるのではないかと思います。倫理や宗教で、明らかになっているような真実であっても、それをお話しする人の気持ちが、理解してもらいたいという積極性を欠く場合や、受け取る人が何らかの理由で聞く耳を持たない場合、明らかになっているはずの内容はうまく伝わりません。

その伝わらない現象そのものを、直接的に嘆いても、建設的とは言えないと思います。伝わらないことで嘆いたほうがいいのは、共通の言葉で語りかけなかった高尚な人であり、聞く努力を惜しんだ人であります。

これは、一般的に現代社会を批判しているのではありません。個人の営みとして、自己の悟ったことを、自己の胸のうちに秘めるか否かは、自分が胸を痛める勇気があるかどうかに関わることだからです。

子供たちの胸は、6歳ともなれば、ずいぶんと痛んでいます。子供たちの目から見て、真実だと感じていることが、どういうわけか無視される、または、否定されるからです。それは本当はそうなのだけれども、こういうわけで今はこういう状況なのだ、という説明が不足しています。

子供たちにもう少し、情報を開示する必要があります。大人と、子供をつなぐ言葉が必要だからです。新しい言葉を創り出す努力よりも、子供の心を思い出す努力のほうが、速くて効果的でしょう。私たちはみな、子供だったのですから。




子供の歴史4 Iこどもたちからのメッセージ
at 2001 07/21 21:09 編集

子供たちが愛を訴えて発するメッセージ。一元的な理解について、述べさせていただきます。

自然科学と人の心が融合した学問には、宇宙論から始まり、地学を経て、環境倫理・生命倫理へとつながる、大きな流れがあります。互いに相反しないように、慎重な姿勢が見られます。何か提案しようとするとき、はみ出さないように細心の注意をはらいます。

ほとんどの場合、「愛」が絶対的なルールです。それでは、愛とはいったい何でしょうか?宇宙論的には、開かれた世界における、人類存在の目的かもしれません。環境倫理・生命倫理的には、閉じた世界の中で許される範囲内における、人類愛かも知れません。

言葉の定義は、それぞれの局地(極値)でわかりやすく可能です。しかし、中間点では多彩な変異を生み、それに関係するパラメーター(媒介変数)が一定の規則に従っているのかどうかわかりません。

地球温暖化に関する、気候変動のシュミレーションのために、最高性能のスーパーコンピュータが何百台も必要であると聞きます。とすれば、愛を定義するためには何台のスーパーコンピュータが必要なのでしょうか?

しかし、子供たちの訴愛力について考えることの中に、僕は一定の真実があるように思います。ネアンデルタール人の埋葬儀式や、クロマニヨン人の文明開化についての議論を待たずして、私たちにはその記憶があります。

そして、子供たちは大人より鮮明な、その記憶の内側に生きているのです。医学的な倫理学や児童心理学が、ヒントを得ているかも知れません。しかし、もっと一般的に普通の大人の人が、自分の体験・子育て・教育・相談・遊びなどの中から、明確な確証を得ているような気がします。

子供たちはなにも語りません。言葉では、なにも話しません。メッセージは、全身で表されているのです。あえて、温かい言葉を使わせていただければ、愛を定義する全ての学問的潮流の根幹をなすものと、精神文化の基幹は、時間の壁を超える伝達方法として、遺伝子を用い、確実な伝承方法として歴史を抜擢したのではないかと、僕は考えます。

こどもたちからのメッセージは、いつでも発せられています。私たち大人が、受け取り、読み、返信する日をこどもたちは待っているのです。




子供の歴史4 エピローグ 学校空間
at 2001 07/27 23:17 編集

(断定調をお許しください。自分の士気を高めるためにもひつようです。・・・著者。)

学校で教えることができること。先生が、どんな生き方をし、どんな夢を持って教えているかということを、ことこまかに話して伝えること。学校で学ぶことができること。先生が、話された夢を理解するように、目を閉じ耳をすませ、耳を閉じ目を見開くこと。

学校で作ることができること。確かな知識に基づいた、考えることのできる自分。考えたことを、先生や友達に伝え、知ってもらう喜びを感じられる自分。仙人でなければ、自然から物を学ぶことはできない。芸術家でなければ、自然の美を感じ取り表現することはできない。でも、学校で学び方を学ぶことができる。

狼少年は、本当は言葉を覚えることができた。覚えるチャンスに教えてくれる人がいなかっただけだ。いつでも学べる。それは真理だが、学ぶタイミングにより効果が違う。

学校は、私たちの人生の中で、もっとも効果的に学べる時期をすごす時空間である。あなたが生まれたところに、時間に、学校があることをもう少し感謝してみて欲しい。

学校で得られた知識が、否応なしに私たちを形成する。ストレスがたまっても、そのストレスを日本語で表現しているではないか。言葉を覚えていなければ、私たちは何者なのかさえ自覚できない。

父、母、保母、保父が基礎を教え、学校が重要な時期に、心を表現する方法を教えてくれたのではあるまいか。私たちは不満を漏らすときでさえ、過去に受けた愛情の上に立ち、感謝の裏側であえいでいる。

天才でさえ、過去に美しい絵を見せられなかったら、美しさを伝承することはできないであろう。学校は異文化の接点である。趣味趣向の違う人生を歩むことになったばかりの、6歳からの少年少女が、年代の違う教師から学ぶ場所である。教師はどんなに正しくても、こどもたちにとっては、異文化の人である。

学校で、異文化の人から学ぶことのほうが、新鮮で学びやすい。同じ文化の方向を観ている人は、その歩む速さが故の嫉妬が生じる。それを嫉妬にすることなかれ。速い人は勇気がある人だし、遅い人は慎重な人だと、もっと単純に発想を転換せよ。

学校は、そのひとりひとりの子供たちの言い分を良く聞いて、できるだけ真剣に相談に乗ればよい。子供の歴史サイトでは、なるべく多くの子供たちの、無限に多くの立場を支援するため、X段落へと勇気を出して進みます。




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子供の歴史2本文 1990年代:こどもたちの「きもち」と「たちば」
子供の歴史3本文 2000年代:こどもたちの「きもち」と「たちば」そして各論へ
子供の歴史4本文 2000年代:こどもたちの「成長」「自然」「愛」「風」
子供の歴史5本文 こどものきもちのはじまり〜胎内・寝返り・はいはい・つかまり立ち
子供の歴史6本文 こどもの行動:ゆびをつかむ、子供に学ぶ
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子供の歴史8本文 こどもの質問にこたえる
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子供の歴史 エッセイ 2003