敬う心と恐れる心

平成二十三年一月二十七日 於加茂法話会

一、昔、近くの神社でのろいの釘、のろいの人形を見たことがある。小学校3年生の時である。七十センチから八十センチぐらいのケヤキの木にわら人形が、五寸釘で大人の背丈に打たれている。その後、神社の中を探していると全部で四対程あった。中には、頭、両手、両足、胸に釘が打たれていた。

二、非人道的な手段で社会から葬ってしまう。呪詛(じゅそ・相手を呪う)の対象になっているという事実が明らかになれば、呪いを解く為に加持祈祷が行われる。

三、明らかに呪詛である事が解れば、対処手段に迷うこともないが、解らないと思い悩み心理的ににっちもさっちもいかない状態になる。ノイローゼの症状になると病院にいく、それでも、とれないと、もののけにつかれた、悪鬼邪霊ということになる。

四、亡霊がもののけとなり、死人が髑髏と化し、祟りをする。奉られない邪険にされた恨みが憑依する霊威は恐ろしいものとされた。怨霊(おんりょう)、荒魂(あらたま)、亡者、怨念の霊威がますます盛んとなり、人々に()(やく)(さい)(がい)をもたらす、その霊力によってまた、祓除(ふつじょ・神に祈って、けがれ・災いをはらい除く)する為に、御霊(ごりょう・「霊魂」の尊敬語。〔死んだ人の〕たましい)を奉り、供養することによって、プラスの機能をあらわす、御霊、神として奉るようになった。

五、戦争は残酷なもので、罪悪感にさいなまれながらも、自らの行為を正当化するため、多くの慰霊の供養塔を建てたり、盛大な回向法要が営まれたりすることになる。

疫病、禍厄が怨霊の祟りから、遺恨がまた怨霊となって、祟りを及ぼし死にいたらしめる。

六、恋敵、むごい仕打ちを受けた者が相手をなき者にするために呪いの釘を打つ慣わしがある。呪い人形を作り丑三つどき(二時から二時半)深夜に氏神の境内にて、人形に氏名等を書いて釘を打ち込む、若し、呪いをかけられたものが、狂い死にでもしようなら、こんどは、その怨霊が出て当の相手に祟る。

七、何かと不幸が続く、病人が絶えない、気にかかることがあって心が晴れない。巫女やイタコの所へおもむき原因を判断してもらう。死んだ霊が供養を待ち望んでいる。迷える霊をおくりとどける宗教的儀式をする。

八、狐、悪霊、自縛霊、先祖霊、かたき、生霊がつく、祓うことが多い。嫌なものを除くという行為をおこなう。間違いではないが、敬う心がないことが多い。

九、肉体的には鍛えることは出来るが、心は中々鍛えられない、宗教的信仰をもつことが大切になる。宗教的儀式敬う心が大切、自分が足りないところを神仏にお願いし助けてもらう。その基本に優しさないとだめである。毛嫌いするのではなく、痛みを理解する。簡単ではあるが相手を認める感性は難しいものである。

正壽寺住職 呉 定明合掌