私の発菩提心

平成十七年八月二十八日 加茂法話会

一、菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、  いとなむなり。

   そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。

この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに?起(くっき)するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然(じねん)にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。あるにあらず、なきにあらず。自性にあらず、他性にあらず。共性(ぐしょう)にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感応道交するところに、発菩提心するなり。諸仏菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず。感応道交するに発心するゆゑに、自然にあらず。

感應道交(かんのうどうこう)

衆生の機感と佛・菩薩の応赴とが相通じること。

   師と弟子との機が互いに相通じること。

  衆生の心が仏菩薩の心に通じ、仏菩薩の心が衆生の心に感ずる

二、山僧、又典座に問う、「座尊年、何ぞ不坐禅弁道し、古人話頭を看せざる。

煩わしく典座に充てられて、只管に作務し。甚(なん)の好事か有らむ」と。

座大笑して云う、「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざる在り」と。

山僧他(かれ)の恁地(かくのごとく)に話るを聞き、忽然として発慚驚心し、便ち他に問う、

「如何なるか是れ文字、如何か是れ弁道」と。

座云う、「若し問処を蹉過せざれば、豈に其人に非ざらんや」と。

山僧、当時、会せず。

道元禅師は中国留学の折、寧波の港の船の中で、倭椹(わじん・・桑の実)を買い求めにきた阿育王寺の典座和尚に

「あなたはお年をめしておられる。何で坐禅や古仏の拈則を読んだりなさらないのですか。わずらわしく典座の仕事をつかさどって、ひたすらにお働きになり、何かいいことがあるのですか。」

「あなたはまだ、修行が解っていないようだ。経典の文字の何たるかをわかっていないようだ。」

「それでは、文字とはいうのはどんなものですか。?道修行とはどんなことですか。」

「あなたはいい所に気が付かれた。あなたが私にいま疑問に思っていることをいい加減に素通りするな。そうすればあなたはいま求めている道の人そのものになるであろう。」

つまり、苦の実態を誤魔化さず、しっかりと見極めていきなさいと教えてくださっているのです。

東龍寺住職 渡辺宣昭 合掌

 

山僧又問典座、座尊年、何不坐禅弁道、看古人話頭、

煩充典座只管作務、有甚好事。

座大笑云、外国好人、未了得弁道未知得文字在。

山僧聞他恁地話、忽然発慚驚心、便問他、

如何是文字、如何是弁道。

座云、若不蹉過問処豈非其人也。山僧当時不会。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。

そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。

この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに?起(くっき)するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然(じねん)にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。あるにあらず、なきにあらず。自性にあらず、他性にあらず。共性(ぐしょう)にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感応道交するところに、発菩提心するなり。諸仏菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず。感応道交するに発心するゆゑに、自然にあらず。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。

心をしんと読んだり、こころと読んだりする。宇宙全体が心であるというときには、しんと読む。例えば三界唯心とか。

菩提心をおこすとは、証りの気持ちをおこすことと考えるのが一般的だが、道元禅師は、自分が未だにお証りの世界に渡る前に皆を渡そうと言う願いをおこし、実践すること、菩提心を起こす事だ。

此岸・・迷いの世界 彼岸・・証りの世界 川をわたるようなもの

丁度季節の変わり目に彼岸へ渡る修行をするのが彼岸会。

六波羅蜜(布施・持戒・禅定・忍辱・精進・智慧)を修行するのでお中日を除いて、七日間に渡って行じる。中日はそのすべてをする。ところが、現在は中日のみになって来ている。他のすべての人を渡してから、自分が渡る。四弘誓願文の衆生無辺誓願度と自未得度先度他とは同じことを言っている。

そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。

いやしとは、風貌がみすぼらしいという意味で使われている。このこころをおこしたなら一切の迷える衆生を救う導師である。

この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに?起(くっき)するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然(じねん)にあらず、凝然にあらず。

時間的に言ってはるか昔からあるのではない。いま、突如として起こったのではない。もともと慮地心とか見聞覚知とかはあるんだけれども迷いとか悟りの心は元々はない。空間的にみて一つではないし、数や量に関わるものでもない。自然ではないとは、仏教では縁起(因縁生起の略)の教えを説くが、因縁によって様々な事が起こってくる。因(原因)  縁(条件)  果(結果)

凝然にあらずとは、(凝・・動かない固まっている)

何か固まっていあるのではない

何か心の中に凝り固まってあるのではない。

わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。

古代インドでは梵我一如という考え方があった。

宇宙全体を梵(ブラーフマン)として、私たちの体の中に我(アートマン)という清らかなものがある。霊魂とも言う。それが肉体という穢れたものに覆われている。そのために様々な苦しみが生まれる。だから、このけがれた肉体がとれれば、梵我一如になれる。それで、肉体を虐めた。苦行を行なった。梵我一如を理想とした。体を痛めつければ痛めつけるほど。ブラーフマンと一体になることが出来ると考えた。

しかし、道元禅師は、このこころはアートマンのような物ではない。わが身の中にあるのではない。

わが身は心(ブラーフマン)の中にあるのではない。

道元禅師は、梵我一如思想を否定した。

凝然とは、こういう凝り固まった物の事を指す。

仏教では霊魂が実態としてあることを否定している。人間の中に魂のような塊があって肉体が滅びると亦別の肉体に宿っていくという考え方を否定した。

この心は、法界に周遍せるにあらず。

法界・・全宇宙にいきわたっているもの、ブラーフマン。

この心は、ブラーフマンのようなものではない。

前にあらず、後にあらず。

法界(宇宙)が出現する前からあったのでもなければ、宇宙が出現した後に現れたものでもない。

あるにあらず、なきにあらず。

あるのでもないし、ないのでもない

「この法(自受用三昧)は人人の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだしゅうせざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」?道話

修行しなければ現れてこない。実践するところに現れてくる

行なえば現れるから→なきにあらず

おこなわなければ現れてこない→あるにあらず

皆さんには坐禅が備わっていますかと聞かれても坐禅をすれば現れるから備わっていないともいえないが、坐禅をしなければ現れてこないから、備わっているともいえない。

坐禅・・行なえば現れる、行なわなければ現れない

宮崎禅師

一生仏様の真似をし続ければ本物の仏様

し続けることが大切。仏道、発菩提心を起したら続けていく。

いままで、怒ってばかりいた人が今日を堺に穏やかな人柄に変わっていく。

自性にあらず、他性にあらず。共性(ぐしょう)にあらず、無因性にあらず。

存在の四つの分け方・・四句分別

自・・自らの中から出てきた物

他・・他からいただいたもの

共性・・自と他が作用する事によってあらわれる

無因・・原因もなく現れる

しかあれども、感応道交するところに、発菩提心するなり。

感應道交する所に菩提心が現れる

衆生の心が仏菩薩の心に通じ、仏菩薩の心が衆生の心に感ずる

諸仏菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず。感応道交するに発心するゆゑに、自然にあらず。

諸仏菩薩が私に与えてくれたのではない、自分の中から湧き出てきた物でもない、感應道交する事によって発心(発菩提心)するのであるから、自然ではない。

感應道交とは、体験して初めてうる事が出来るもの。言葉では中々表しえない物。