正法眼蔵佛性『義雲頌著』

平成十八年二月二十七日 於加茂法話会

第三 佛性 著語 達彼達此(たつぴたつし)佛性は遍界あまねし。彼此(ひし)・(おちこち)かれとこれ。あのこととこのこと。また、あちらとこちら。

威音世界非幽遠 威音世界、幽遠にあらず。
威音王如来(過去荘厳劫最初の佛、無量無辺の極遠にたとえる)の世界、空王那畔(自己本来の面目、父母未生以前の消息。善悪迷悟、言語意識も及び得ない境地)というも幽玄(たやすく知ることができないほど)深遠、奥深く遠いことではない。
直至今其理自彰 直に今に至って其の理、自ら彰(あきらか・はっきりと目だたせる)なり
  いま、ここにおいて直に、松に古今の色無く、竹に上下の節ありと、すべてのものは、ありのままの姿の相において本来の面目を彰わして蔵すところがない。
本分性光莫疑怪 本分の性光 疑怪(ぎげ)することなかれ。
  本来、無余無欠である佛性の光明を疑い怪しんではならない。いや、疑い怪しみようが無いではないか。
大千界日出る扶桑 大千界日(ひ)、扶桑(ふそう昔中国で、東海の日の出る所にあると伝えられた神木を、また、その木のある地をさしたところから)日本の別称)に出(い)ず。
  太陽の出るところには必ず扶桑の神木があるように、時間と空間を超えて、その時その処にいつでも佛性は顕現(けんげん・はっきりと形に現れること)している。

正壽寺住職 呉 定明合掌