義介禅師の老婆心の一考察

平成十七年十二月十六日 於加茂法話会

道元禅師から義介禅師は三回も汝に老婆心なしと云われ、遂に嗣法されなかった。
一二一九年(承久元年)二月二日義介生まれる。姓は藤原氏。俗寿九十一才僧臘七十八年
一二三二年(寛喜四年)十四歳義介、比叡山にて受戒。
一二三六年(嘉禎二年)十月十五日懷弉禅師、興聖寺の首座。十二月三十日秉払。
一二三七年(嘉禎三年)春、『典座教訓』懷弉も入門し典座の職をされていた。
師四客典座及首座、多年之間、兼行自者、従元公二十年中『三祖行業記』
一二四一年(仁治二年)春に興聖寺の道元禅師の会下になった。義介二三歳。
   懷鑒・義介・義尹・義演・義準らが集団で門下に入った。
一二四三年(寛元元年)七月に興聖寺を去り、吉峰寺に行かれた。義介二五歳
冬安居に典座職を努められる。
一二四四年(寛元二年)秋永平寺においても典座を一人で勤め、百事を照管さてた。
一二四七年(宝治元年)夏、二九歳の時、監寺に充てられた。
鎌倉の教化に懷弉禅師の随伴が考えられる。
一二五一年(建長三年)春懷鑒覚晏所伝の佛照徳光下の嗣書を義介に附授した。
一二五三年(建長五年)八月二三日道元禅師、京都俗弟子、覚念の私邸にて遷化す。
義介三五歳
一二五四年(建長六年)十二月より建長七年2月まで義介は懷弉の室に入って嗣法となる。
一二五五年(建長七年)二月二日参次雑談次、義介云、『御遺言記録』曹全宗源下二五七項
一二五九年(正元元年)入宋一二六〇年如浄三十三回忌六十二年まで義介四十五才で帰朝。
一二六七年義介永平寺住職、一二七二年六月まで、
一三〇九年九月十四日義介示寂。
発心已後又発心す、直下佛法を信じ、佛法を志求して未だ休まず。然りと雖、佛法に於て真実に生信を取ることは必ず其の期あるか。其の所以は先師の會に於て聞く所の法、此の一両年は之を稽古す。皆是れ先師の聞く所と雖も、當初と而今と異れり。所謂異なるとは、先師弘通の佛法は今の叢林の作法進退正しく是れ佛義佛法と聞くと雖、内心に私心を存す。此外真実の佛法定めて之あらんと。然れども近比此の見を改め、今の叢林の作法威儀等、此れ即ち佛威儀、擧手動足の外別に法性甚深の理あるべからず、此旨真実に信を取るなり。和尚示して云く、先師の佛法は真実に是の如し、汝已に是の如くなれば、先師の佛法を疑わず。古人云く、今日より已後天下人の舌頭を疑著せずと。汝も亦復た是の如し。
今の叢林の作法威儀等、是れ佛義佛法と示されながらも、一方では、此外真実の佛法定めて之あらんと。と思い、常に、法性甚深の理を究明されていた事がうかがわれる。後に舉手動足の外に法性甚深の理と身証されている。考えて見ると、老婆心をより日常性に即して言い換えたものと考えていいだろう。

正壽寺住職呉 定明合掌