大悲心陀羅尼の解説は省略させていただきました。

  1. 佛教は、命の使い方を勉強することであり、身に付けて生きて行こうとするの が佛道です。慈しみの心を持ち、相手の気持ちになり優しく接し、正しく生き る智慧をわきまえて実行する菩薩道です。

    仏としての生き方を求める、仏様の教えを正しく伝えている正しき指導者に就 いて、教えを見聞きし実際に行なう事を菩提心と言います。道元禅師は、その 行ないの根本は坐禅であると強調されます。行なわなければ菩提心(仏様の心 を求めた事)にはならない。

    その行ないは、欲望の心で行なってはならない。私たちの怒り、欲張り、愚か な心では、人間として欲望の世界、苦しみの世界に迷い、人間として崇高な生 き方はできない。邪な考えを持っている人に近づいてはならない。曇りなき眼 の正しき指導者に随い、坐禅を基本として、崇高な生き方をした跡形を模範と しなければならない。

    坐禅は自分自身の聖体(正しき心と体)を保任する宗教的安心である。この坐禅 を日常生活の基本として生きる、二十四時間坐禅を規範としていきる。空白の 時を過ごさない。

    自分、他人も同じく佛道を成就し、自利利他の功徳を圓満せしめん事を誓願し、 信仰心を持って行なう事が重要である。何事も素直な心で見聞きし、正しき心 と姿勢の二つのあり方が大切である。

  2. 笑隠禅師の大悲の序に

    今の禅宗では、朝の勤めや夕方の勤め、祖師や檀家の年忌で「大悲呪」を唱え ている。追善供養を中心であるが、密教を中心とする千手観音の信仰は病気回 復の現世利益を求めたものである。

    笑隠禅師の大悲の序に「インドの言葉を翻訳しているが、秘密の神呪は翻訳さ れていない。もし、呪を尊重して唱えるならば、天地の神々を動かしたり、鬼 神を使ったり、天気を変えたり、吉祥をもたらしたり出来ると云うが、どうし てそうなるのか、その理由が分かっている人は少ない。

    それは、持って生まれた(本性)仏性が情欲にどっぷりとつかり、一瞬の間に本 来持って生まれた姿から遠ざかり、たちまちに変容して、本来の清らかさを失っ ている。なんとも、痛ましいことである。

    だから、仏はこのような事態を悲しんで、秘密の神呪を授け、人々の心を清ら かにして、念誦することによって、心を散乱させず、本心を明らかにしようと された。

    観音は菩薩道を歩み、全ての生きとし生けるもの、形のあるもの無いもの、明 るい所、暗い所、何時もこの大悲呪を説き続けているのだ。

    佛教の教え、戒律、理論に説き明かされている。縁起や修行、正法眼蔵・涅槃 妙心は、どれもどれもこの大悲呪を名付けたものである。

    もし、全ての人やものが、各々この大悲呪によって自らの本性を明らかにして 仏となるならば、功徳を積んで得られる利益などは問題にならない。

  3. つまり、現世利益を目的とせず、陀羅尼を念誦し妄念をとどめ、本性を明らか にする手立てとするのである。

    禅宗の大悲呪の読誦は、単に追善供養のためではなく、自己の修行の一環とし て捉えなければならない。

  4. 蝉は、卵で一年、土の中で六年、地上で十日の蝉の一生、今、たった十日の命 を生きている。

    サラサラ サラサラと とどまることを知らない 小川の流れ 澄みきった 川面 に 光は踊り 小波(欲張り・怒り・愚かさ・嬉しさ・優しさ・楽しさ・感謝)を たたえて 流れているゴミ(欲望)や濁りが混ざっても、次の流れに 清められて 何時もさわやかな流れをたやさない わが心の流れも かくありたい。

    正壽寺住職 呉 定明 合掌