佛誕会(花祭り)にちなんで

平成二十年三月二十八日 於加茂法話会

①花祭り・四月八日、お釋迦様の誕生日、甘茶をかけるのはなぜか。
「天上天下唯我独尊」尊い存在である事を自覚して、人生の主人公になる。
甘茶は天龍が釋尊の降誕を讃え甘露の雨を潅いだ事による、私共も甘茶をそそぐ事によって、私ども自体も、それぞれ唯我独尊の主人公である事を自覚し、また、心のゴミ(欲張り・いかり・愚かさ)三匹の鬼を洗い清め、施し、優しく、正しく、生きていく真理の花に包まれた自分を見出す、誕生させる。「花御堂」の主人公。人類の支柱になれとお釋迦さまは天と地を指していると私は受け取っています。

②道元禅師はお釈迦様の佛法をどのように受け取ったか。
正法眼蔵 諸悪莫作 延応エンオウ庚子カノエ・ネ月夕、1240年旧八月十五日在興聖宝林寺示衆

③仏教の基本である「諸悪莫作」ときこゆる、これ仏正法なり。百千万仏の教行証なり。
 過去七佛、どのほとけも、どのほとけも、明らかに受け継いできた教えであり、修行であり、証りである。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」七佛通戒偈
 「《諸悪作すこと莫れ、衆善奉行すべし、自ら其の意を浄む、是れ諸仏の教なり》」

④どこの経典をもとにしているのか?
增壹阿含經卷第四十四 東晉 瞿曇僧伽提婆譯・T02n0125_p0787b01
「一切惡莫作 當奉行其善 自淨其志意 是則諸佛教」
  出曜(比喩)經卷第二十五・姚秦涼州沙門竺佛念譯 惡行品第二十九・T04n0212_p0741b21
 「諸惡莫作 諸善奉行 自淨其意 是諸佛教」

⑤唐の白居易《772~846 中唐の詩人。字(アザナ)は楽天、号は香山居士》は、仏光如満禅師の在俗の弟子であった。江西大寂〔馬祖道一786寂・壽80〕禅師の孫子にあたる。杭州の刺史(シシ・地方の州に常置された長官)であったころ、鳥窠の道林禅師に参じた。
その時、居易は問うていった。「如何是仏法大意」。「《如何ならんか是れ仏法の大意》」。
 道林が答えていった。「諸悪莫作、衆善奉行」。
 居易がいった。「もし恁麼にてあらんは、三歳の孩児も道得ならん」。
 道林がいった。「三歳孩児縦道得、八十老翁行不得なり」。
 恁麼いふに(そういうと)、居易すなはち拝謝して去った。

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教

⑥道元禅師は正法眼蔵のこの巻きでは、仏道の修行の上で諸悪莫作と因果関係を説いて、
「すべての仏道修行には初め発心して得た仏道も、修行をへて到達した後の仏道も全く同じである。」
このことを佛因佛果といい、諸悪莫作が因縁となり、衆善奉行が結果となる。
妙因妙果といひ、仏因仏果といふ。圓因満果=本証妙修=衆善奉行
自浄其意…「其意、その意(こころ)」本来清浄」、不染汚(ふぜんな)ありのまま。
諸悪莫作…「莫作、三世の諸仏、諸悪をなすなし、」=清浄のこころ、佛性そのものの働き 莫作の力量
自浄(本来清浄)=其意(そのこころは不染汚)=莫作(なすことなし)=奉行(妙薬、坐禅に裏打ちされた行動)

⑦仏の最高の智慧を学ぼうとして教えを聞き、修行をかさね、証りにいたることは、或従知識、或従経巻
 善知識にしたがって聞き、ありいは、経巻によってまなぶに、諸々の惡をなすことなかれと聞こえる

⑧善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。
 欲が悪いじゃない、怒りが悪いじゃない、問題は欲に我を失うこと、怒りに我を失うこと

⑨「心」ははじめから完成品?こころは経験や知識で育つ、心ってちゃんとあるわけではない、波が立つようにただ起こるだけ、欲に振り回さなければ心は落ち着く、惡「怒りストレス、ぷりぷりする。癡、心が迷う、まとまらない。貪、もっともっと、よくばり」…施し、優しく、正しく、生きていく真理の花に包まれた自分を見出す。衆善奉行の生き方。

正壽寺住職 呉 定明合掌