<創作活動について>
月影蓮哉という人間は、ディレッタンティストであり、ディレッタントな物書きである。
辞書を引かなければ「ディレッタンティスト」や「ディレッタント」という言葉は、
はて日本語ではどんな意味だろうかと思われる方々がおられると思うので、まずそれを説明しておく。
ディレッタントというのは「dilettante」と書き、日本語では「好事(こうず)」と訳す。
好事というのは、広辞苑(第五版)によれば、「かわった物事を好むこと。風流を好むこと」とある。
わかりやすく言い換えれば、「芸術等を興味半分、面白半分でやる事」である。
ディレッタンティストは、それに名刺語尾の「ist」がつき、「好事家(こうずか)」となる。
つまり、「かわった物事を好む人」という意味である。
日本では、ディレッタンティストは、最近その社会的地位を確立しつつある、いわゆる「オタク」と同じ意味である。
近い将来、その手の経済進出が著しくなり、日本経済は「かわった趣味の物品」によって活性化されるのならば、
前々から差別的意味を含まれていると指摘風潮がある「オタク」は差別用語となり、「ディレッタンティスト」が使用されるであろう。
私は、ディレッタンティストであり、ディレッタントな物書きであるというのは既に書いた。
月影蓮哉はオタクであり、好事な物書きであると言っているのだが、私自身はそうであると思っている。
物書きについては、興味半分、面白半分でやっていると思って頂いて良い。
雑誌に載るようなレベルの小説は書けないし、かといって電撃小説大賞に応募する気も全く無い。
私はあくまで興味半分、面白半分で小説を書いている。
こう書くと、創作仲間に「お前は何様のつもりなんだ」と言われるかもしれないが、実際仲間もそうであると考える時がある。
それでは仲間に問う。君はどうして、何のために小説を書くのだろうかと。
私は興味半分、面白半分で小説を書いている。これが、私が小説を書く理由である。
小説を書く事に理由などいらないかもしれないが、中にはきちんとした理由がある人もいるだろう。
例えば、「小説を書く事」が自己表現の方法であったり、「小説を書く事」によって、書き終えた時の達成感を味わう。
私の稚拙な頭では、その程度の事しか考えられないのを許して頂きたい。他にも理由はたくさんあると思う。
さて、小説というのは何なのだろうか。
何故小説というのが生まれ、人はどうして小説を書くようになったのだろうか。
こうやって語ると、様々な哲学的要素やなんたらかんたら、云々、とありそうだ。
私は、小説というのは、自分の書いた話を第三者に読んでもらい、それについての思惟を行ってもらう物だと考えている。
これは古来の仏教説話、例えば「宇治拾遺物語」がそうだが、それと同じ物であるだろう。
良い説話、良い小説は、読者に思惟をもたらし、考える力を与え、稀には生きる希望を与える。
最近、若い世代による読書離れが懸念されているが、私はそれと昨今の若者事情の因果関係は無いと思う。
すぐにキレるだとか、親を暴行し、エスカレートされれば殺す。路上で窃盗を行い、見ず知らずの少年少女に危害を加える。
そういう若者の発生は、読書離れやゲーム脳とは関係無い。社会全体の脆弱がもたらした物であると私は思う。
言ってやるが、読書習慣そのものが存在しないと思われる、アフリカの少数民族はどうだろうか。
彼らはまず犯罪を起こさない。読書をしていないのにもかかわらず、犯罪を起こさないのは何故か?
それは、彼らの統率者が、強大なリーダーシップを持って彼らを統率しているからだ。
日本では、その統率者自体が脆弱であり、幼稚である。
かつての強大な指導力は消え、一家の大黒柱であり家長である「強い父親」の権威は崩壊し、しまいには社会全体が脆弱した。
現在の若者犯罪は、それらに対する反抗ではないだろうか。
これはあくまで私の憶測に過ぎないが、ひょっとしたら、理由のひとつではないだろうか。
話が大きく反れてしまったので、ここで本来の話に戻す。
私は小説を興味半分、面白半分で書いている。
つまり、プロ作家から見れば「アマチュア」である。素人である。
永井荷風、谷崎潤一郎、中島敦と比べれば、天と地の差がある。
私が一番好きな作家であり、尊敬する三島由紀夫と比べれば、地球の核と銀河系の差があるではないかと思っている。
実は私、小説はあまり読まない方である。
拙い小説を書きながら、小説を読まない人間は珍しいのか、珍しくないのかそれはわからない。
作家には、その作家なりの「クセ」があると私は思う。
まあ、書き方の話なのだが、それは先人達が遺した作品を読み、影響され、自身の書き方が完成すると私は考えている。
私自身、書き方は有名な作家から影響されて完成したと思っている。
私は三島みたいな小説は書けない(あの豊富な語彙力は真似できない)。
その私が影響されたのは、私の高校の先輩と、奈須きのこであるのだが、私は果たして本当に影響されたのか、良くわかっていない。
私は確かにアマチュアである。小説を興味半分、面白半分で書く程度の人間である。
今、私は「しぐれ堂」というサイトに私の拙い文章を掲示させて頂いている。
管理人のスイ殿には、改めて厚く御礼を申し上げる。
自身のホームページを持たない私にとって、「しぐれ堂」は私の素人小説を載せて頂く神聖なる領域である。
私はアマチュアである。だから、「しぐれ堂」へ作品を投稿している仲間も、私の小説に対してあれこれ言わない。
言うとしても「ここの漢字が間違っている」とか「名前が違っているぞ」というありがたい御指摘ぐらいである。
何故私がこんな事をいきなり言い出すとなると、それには理由があったりする。
あれはまだ私が「しぐれ堂」に作品を投稿する前の話である。
当時中学生であった私は、とあるサイト(今は閉鎖してしまった)に拙い文章を投稿した事があった。
そのサイトの管理人自身も文章を書く人であった。だが、その人の感覚は、同じ物書きとしては少し違っていた。
私がそのサイトに身を寄せてから約3年。私が高2の時である。
サイトの掲示板に、管理人と投稿者との間で揉め事があった。
その管理人は、遠まわしの表現であったが、私や投稿仲間全員は、彼の表現はこう読めた。
「出来の悪い人間や、作品はいらないよ」と。
前々から、管理人は他とは違っている感覚の持ち主だとは知っていたし、気付いていた。
それ故に、投稿者から少し嫌われ、次第に孤立していたような気がした。
そして、管理人は、この発言により、完全にひとりぼっちとなった。
実は、そのサイトにS氏(恐らくイニシャルなので大丈夫だと思うが)という投稿者がいたのだが、S氏は管理人に追放された。
事の発端は、そのサイトでのチャットの話である。
S氏は私の作品に対して「穴が開いてますからね」と言った。
それに対する私の返事は、「いやいや、本当に穴ばかりですから。もっと精進しないと」であった。
だが、管理人はS氏に追放処分を下した。追放されたS氏は、二度と帰ってこなかった。
数週間後、投稿仲間であり、サイトの中でも識者的存在であったN氏が、管理人に対して反論を掲示板に書いた。
内容は、「あなたがS氏の発言に対してどうこう言う立場は無い。追放などを下すべきではなかった」であった。
N氏は管理人にこう意見を述べたが、管理人の態度は変わらなかった。
2005年7月、そのサイトは閉鎖した。管理人が、投稿者からの信頼を失った結果がこれだった。
この後、投稿仲間であるM氏が、管理人に対して批判的な意見を述べた。
あの人は、こう考えていた。
出来の悪い人間や、作品はいらない。
それが、自分の運営するサイトにとって、マイナスにしかならない。
あるいは、訪れた人にとって、作品を投稿して下さる人にとって、マイナスとなる、と。
今、その管理人が何処にいるのか私は知らない。
私は偶然、別の創作サイトの掲示板に、その管理人が姿を出していたを発見した。
そして管理人はこう書いていた。「もう二度と、ネット世界に現れません」。
管理人さん、二度とネット世界に現れないと書きましたが、もしこの文章を読んでいるのであれば、私はあなたにこう言いたい。
「あなたは人間のクズだ。あなたは何様のつもりなんだ。あなたは創作活動を何だと思っているんだ」と。
あの管理人は、たった一言で、我々を裏切り、創作活動をしている人々を裏切ったのだ。
出来の悪い人間や、作品が斬り捨てられてはならない。それは、あってはならない事なのだ。
この悲劇が、二度と繰り返されない事を願って。