<体罰について>


私から見れば、これが新聞沙汰になる事件であるのか、と思う事件が、とある有名私立高校で発生した。
しかもその高校、私の母校である。

事件は2005年9月14日に報道された。これはあくまで「報道」された時間なので、お間違えのようにしてほしい。
後に書くが、事件が起きたのは2005年の4〜6月である。
報道年月日については、日本国内の主要新聞がその年月日に報道したので、私は歪曲あるいは隠蔽する事無く、そのままお伝えする。

内容は以下の通りであった。

その私立高校で、1年生を担当する男性教師が、複数の生徒の頭や顔を叩く体罰が、2005年9月14日判明した。
男性教師は指導方法の誤りを認め、その生徒と保護者に謝罪をした。
同高校は、男性教師に対して口頭で厳重注意をし、事実関係を詳しく確認した上で処分を検討するという。

こう新聞に書かれていたのを私は見て仰天した。それが自分自身が通っている高校だったならばなおさらである。
新聞記事は、その事件の詳細をこう書いていた。

同高によると、男性教師は今年4〜6月、担当クラスの男子生徒2人に対し、
「居残りで宿題をする約束を破り、下校しようとした」として、両手で3回顔を平手打ちしたり、
「忘れ物が多い」としてほおをつねったり額をたたいたりした。

また、6月には遅刻を繰り返した別のクラスの男子生徒にも、頭を出席簿で3回叩いた。

こう、書かれていたのである。
これに対し、私が思った事は、「これがどうして新聞沙汰にならなければならないのか?」であった。

この報道は朝刊に書かれていたので、私が在籍しているクラスでは、私と1名の級友のたった2名しか知らなかった。
知らない級友は、朝刊を読んでいないか、あるいは読む時間が無かったのである。
事の真相をそれを知らない級友に話すと、「アホらし。悪い事した奴を殴るのは当たり前やろ」と、至極当然な事を言った。

この後、私のクラスの担任から、この事件に関しての学校側からの説明書が、御丁寧に封筒に入って配布された。
そして、その日の午後の授業は緊急職員会議となり、生徒全員が下校となった。


一部の識者、乃至体罰を受けた生徒の保護者からは反発を喰らいそうだが、私の意見はこうである。

この体罰は正当である。

いや、殆どの方は、この体罰は理にかなっていると思うと私は考える。

そもそも体罰というのは、いつ頃からその単語が表面化したのであろうか。
私はその発端を詳しく知らない。少なくとも、私の小学校時代は、体罰事件が表沙汰となった記憶はない。
いや、むしろ体罰というのは正当化されていた。

教師が子供の悪態を体罰で解決するのは、道理にかなっている。
それはあくまで「悪態」のみである。
例えば、ある子供が本当にふざけて器物損壊事件を起こした場合、それは体罰を持ってその子供に知らせる必要がある。

かくいう私の幼年時代もそうだった。
悪い事をしたのであれば、私は親から拳を受けた事があった。
それは社会に対してしてはならない事であり、人のふみ行うべき道、すなわち道徳に反しているからだ。

幼年期の子供は、聞くより実際に見る方が学習するのである。それはやはりまだ脳が未成熟であるからだろう。
だから、言葉よりも身体で感じる方が学習するのだ。故に親はその学習手段として拳を振るうのである。

私だって、悪い事をした。知らず知らずのうちに、それが悪くない行為だと思っていても、私は親から拳を受けた。
そして、私はその行為が悪い事であると学習し、その行為は二度と行わないようにした。
もしそれをまたしてしまうと、再び親から鉄拳が飛んでくるからだ。

親に殴られるというのは、良い事である。こんな事を書くと、一部の識者から批判されるかもしれないが、私は良い事だと思う。
子供は悪い事をし、親に拳を受ける事によって、それが悪い事であるのだと初めて理解するのだ。
私は、親が私を殴ってくれた事を感謝している。

こう書くと、月影蓮哉がマゾではないのかといらぬ誤解を生みそうだが、私はあえてそう書いておく。
親が私を殴ってくれた事は、私と私として成長させたのだ。

話は変わるが、アニメ「機動戦士ガンダム」で、主人公のアムロ・レイが上官のブライト・ノアに殴られた際、こんな台詞を言った。

「殴ったね、親父にもぶたれた事ないのにっ!」

あまりにも有名な台詞なので、当時のガンダムを実際に見た人。後世に伝えられ、台詞だけを知っている世代の人もいると思う。
私はこの台詞から、何を感じ取る事ができたのだろうか。

「機動戦士ガンダム」、俗に「初代」とか「ファーストガンダム」と呼ばれるこの作品は、1979年に放映された。
1979年というと、時は大平正芳内閣で、第二次石油危機が起こり、
ソ連がアフガニスタンに侵攻し、イラン革命が起こり、中越戦争が勃発した。

既に全共闘による大学紛争は終結し、ウォークマンが発売されたその当時、日本の家庭社会はどうだったのであろうか。
少なくとも、今のような家庭ではないと私は思う。まだ伝統的な日本独特の良い家庭生活があったはずだ。

子供たちに効果的にしつけを行い、かつ社会人としての基本的な約束事を教えこむことは極めて重要なことである。
しかし、最近はそれがあまりうまく行われていない傾向にある。

愛情に裏付けられた「良い体罰」は、確かに極めて有効な教育手段だ。
殴られる事によって、子供はそれが悪い事だと認識するからである。

しかし、日本においては学校教育法によって体罰が一律に禁止されている。
つまり、「良い体罰」ですら禁止されているのだ。これはおかしいと私は思う。
だが、今の学校教育法は「良い体罰」を禁止している。

学校教育法第11条によれば、

「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。
 ただし、体罰を加えることはできない。」

としている。

あまりにもふざけている。私はこれを見た途端そう思った。
何故、「良い体罰」がいけないのか? 私はそれを問いたい。
確かに、中学生や高校生になってくると、何故自分が殴られるか理解できるアタマになっているだろう。
悪い事をしたから殴られる。この年代になると嫌でも理解できる。

だが、小学生はまだまだそんなレベルではない。
私が幼稚園に通っていた時、体罰は無かった。あったとしても口頭忠告であり、それは体罰ではない。

しかし、小学校になれば別である。……別であるのだが、私が通っていた小学校は、体罰事件が発生しなかった。
私が小学校に通っていた6年間。生徒間による殴り合いは確かにあったが、それを「良い体罰」で戒めることはなかった。
だが、塾では別だった。

私は小学校高学年〜中学校時代、深刻な学力低下に遭い、学習塾に通っていた。
その塾で、私達塾生は、悪い事をしたら殴られた事があった。

見た目は決して体育会系の先生ではなかったが、指導は懇切丁寧で、時に優しく、時に厳しい素晴らしい先生であった。
その先生は決して女子には手を出さなかったが、我々男子に悪い事があれば、即座にしばいてくれたのである。
宿題忘れがあれば拳が飛び、間違えてはならない間違いがあれば、椅子の上に正座をさせた事もあった。
私は正座させられた事はなかったが、拳を受けたことはある。宿題を忘れたのではない。解答を間違えたからだ。

思えば、これこそが理想の教師像なのではないかと私は思うのである。
勉強において宿題忘れはまず論外であり、間違いはその後にやってくる入試でしてはならないミスである。
「良い体罰」による指導は、生徒を「良い人間」にする。間違いをする人間は生まれなくなり、モラルのある人間を育てる。

しかし、昨今の若い世代はどうだ。
しつけの全く出来ていない子供、倫理観が欠如した子供は、「良い体罰」を受けてがいないために発生すると私は思う。

これがエスカレートすれば万引きや窃盗を起こし、浮浪者を殴り殺したり、普段は良い子だったのが突然に親を殺したり、
1997年に神戸で起こった酒鬼薔薇事件のような凶悪犯罪を起こす。

最近の子供達は、どうしてこのような犯罪に走るのか。
それは、やはり「良い体罰」の欠如こそが、このような事件の引き金のひとつではないかと私は考えている。
逆に言えば、彼らは昨今の教育体制の犠牲者なのだ。

そしてその子供達はやがて「親」となり、体罰を知らぬ親の指導を受けた「子」は、どう社会で生きていくのであろうか。
これだけで国家は崩壊しまいが、いずれ崩壊はすると私は考えたりする事がある。

私はあえて言う。

「居残りで宿題をする約束を破り、下校しようとした」として、両手で平手打ちする事は「良い体罰」だ。
「忘れ物が多い」として、ほおをつねったり額をたたいたりする事は「良い体罰」だ。
「遅刻を繰り返した」として、その生徒の頭を出席簿で3回叩く事は「良い体罰」だ。

話がかなり脱線しそうだが、「Navel」が生み出したゲームに「SHUFFLE!」というのがある。
そのゲームのキャラクターに「神王」なるキャラがおり、そのキャラの座右の銘は「体罰は愛」とある。

多分、彼の言う「体罰」は「良い体罰」なのだろう。そう、「良い体罰は愛」なのだ。

全国の保護者、そして全国の教師に発言する。

「良い体罰は愛」だ。