優しいが故に…
ちょうど主婦の人たちが買い物に出かける昼下がり、私もその人たちに見習って同じように
近くのスーパーに来ていました。主婦は忙しいとこういう風に自分でやってみて初めて気付く
ものです。そういえばまだ、私の名前を言っていませんでした。私の名前は鳴海小夜子。十代で
世界的天才ピアニスト。二十代で警視庁の名探偵と呼ばれた鳴海清隆の弟、鳴海歩の妻です。
でも、歩さんも清隆さんに優らずとも劣らず有名なピアニストです。私にとってこれがささやか
な自慢ですね。ある程度の人気でしたが、世界的有名なアイズ・ラザフォードさんが「ナルミの
弟は俺のライバルだ」と言ってから、一気に売上が上がりました。それともう一つ、歩さんには
副業があって、今日はその副業で出かけているのです。それは探偵。探偵としてもやっていける
ほどの持ち主で、時々歩さんのお義兄さん、鳴海清隆さんの変わりに歩さんがこうやって出かけ
ているのです。さて、そんな事より、今日の夕食の材料を買って帰らないと……。私はスーパー
に入るとカートを押しながら、今日の夕食の献立を考え始めました。色々と食材を見ていると
「小夜子くんかな?」
「はい?」
後ろから私を呼ぶ声が…。呼び声に答えて振り返るとそこには、お義兄さんが立っていました。
「お義兄さん。こんにちは」
「ああ、こんにちは」
「あれ?今日のお仕事は?」
「いや、早く終わってね。身の重いのまどかの代わりにこうやって買い物にきているのさ」
「そうですか、大変ですね」
「いや、それにまどかに料理をさせたら……私の身が持たんよ」
確かにあの料理は最悪でしたね。私も二度と食べたいと思わない代物でしたから…。何をどう
したら、あんな酷い料理になるんでしょうか?
「そんな事はさておきだ。小夜子くん、これから暇かな?」
「あ、はい。大丈夫ですけど…」
「なら、私に少し付き合ってもらえないか?」
「ええ、構いません」
私はお義兄さんと一緒に見て回りました。どうやら、お義兄さんは料理をできるらしく、聞いて
みると「私が出来なかったら、まどかを嫁になんかしないよ」と少し酷い事を言っていました。
まぁ、それ以外にもごくありきたりな世間話をしたり、と楽しく買い物をすませました。
私とお義兄さんは会計を済ませると、お義兄さんと一緒に近くの喫茶店に入りました。一体、
何を私に話すのでしょうか?私とお義兄さんは空いていた窓際の席に座ると、お義兄さんは
コーヒーを私は紅茶を注文しました。コーヒーと紅茶が届くまでは普通の世間話をしていた
のですが、
「さて、本題に入ろうかな」
コーヒーと紅茶が届くと、そう言って話を切り出しました。
「この質問は正直、女性に対して失礼極まりない質問になるが、答えて欲しい」
「分かりました」
そう答えたものの……
「歩に抱かれた事はあるかい?」
……その質問を理解するのに、十秒近く要しました。…確かに女性に対して失礼極まりない質問
ですね。しかし、お義兄さんが答えて欲しいといっている以上、答えるしかないでしょう。現に
お義兄さんは呆けている私を見つめながらも待っているのですから。
「……はい」
声は小さくなりましたが、何とか答えられました。正直、恥ずかしいです。しかし、一体こんな
質問を私にして、何をするつもりなんでしょう。
「…抱かれている時、怖いと感じた事は無いかい?表情は怖くなくても、どこかおかしい、
何かが普段の歩と違う、と感じた事は無いかい?」
普段とは違う……。何故、お義兄さんがそれを知っているのかと、驚いてしまいました。確かに
思い当たる節はあります。でも、それを誰かに相談した事はありません。相談した事が無いのに
何故……?
「ありますけど…、どうしてそれを知っているのですか?」
「それが今日の本題だからだよ」
お義兄さんが全てを見通しているかのような、瞳で私を見つめました。私には見えない物は無い、
と瞳が語っているように見えました。
「私の目が怖いかい?」
「えっ?」
「少し怯えたような目で私を見ていたからね」
確かに怖い思いはあります。それは推理をしている時に見る事がある瞳でした。私もお義兄さん
と一緒に事件に遭遇した時にその瞳を見た事がありました。今、その目で見られて犯人の気持ち
が少しだけ分かりました。
「…推理をしている時のような鋭い瞳していましたから」
「それはすまなかったね。それより、本題を進めるよ」
「はい」
「歩が怖いと感じるのは私の代わりに事件を頼んだ夜では無かったかな?」
「はい、そうです」
…今日も少し不安な気持ちを持って買い物に来ていたのを気付かれているかもしれません。
私もそれを受け止めないといけない。でも、それはまるで獲物を狙っているような獣の瞳と
よく似ているために恐ろしくて、怖くて、怯えてしまうんです。
「それは歩の優しさが災いしているのさ」
「歩さんの優しさですか?」
お義兄さんは口を隠すように手を組んで、私をじっと見つめながら話を始めました。私はそれを
一字一句聞き逃さないように聞いていました。
「そう、優しいが故に…」
「……」
「私の代わりに事件を解くという事は、普通の簡単な事件と言うより、難解でトリックが
使われているようなものの場合が多い。すなわち、計画犯罪と言う事だ」
「…何が言いたいのか私には分かりません」
「計画犯罪と言う事は怨恨と言う確率が非常に高い。それを私は言いたかったのさ」
怨恨…。それと歩さんの優しさが一体、どう言う関係が…。
「…それでも繋がりません。それと歩さんの優しさがどういう関係があるんですか?」
「とても深い関係だよ。小夜子くん」
お義兄さんは口元に笑みを浮かべ、私から視線を外すと冷め切ってしまったコーヒーを一口
飲みました。私もそれにつられて紅茶を一口、口に含みました。冷め切った紅茶は渋くなり、
その渋みが私の頭を刺激しました。それでも、私は歩さんの優しさと怨恨の繋がりが分かりま
せんでした。
「分からないようだね」
「はい、全く」
お義兄さんはまた、口元で手を組むと話を再開しました。
「謎解き…とまではいかないけど、解説をしようか」
「……」
「怨恨の殺人と言う事は、加害者が被害者に恨みを持って殺した事になる。事件を解決に導く
なら単に推理するだけの事。その事件での加害者を出すだけだ。歩なら問題なく導き出せる
だろう。それもゲームのように…。しかし、加害者が被害者に恨みを持っている、という事は
加害者も被害者であり被害者も加害者になる。そこに原因あるのさ」
「……?」
「まだ分からないかな?」
「はい」
「…加害者は被害者といったね。すなわち、その事件だけを見れば、加害者を上げる事により
解決される。しかし、加害者が被害者と言う事を考えれば事件は解決されない。むしろ、
加害者は傷付く。ゲーム感覚で解いた事によって…」
そこまで言われて初めて分かった。歩さんが優しい為に、加害者でありながら被害者である人、
その人も歩さんは救いたかったのかもしれない。私がひらめいたような顔をしたのか、
「分かったかい?そういう事さ。歩は事件に関わった人、全てを救いたいのさ。傲慢と思う人も
いるかもしれないが、歩の優しさがそれを望んでしまうのさ」
「…優しさと怨恨は繋がりました。でも、私が感じる恐怖とは結びつかないんですけど」
そう、それが分からない。何故、私が恐怖を感じるのか?何故、わざわざ私にお義兄さんが
この話をしているのかも…。
「さて、本題の核心に迫ってきたよ。小夜子くん」
「次は私が歩さんに感じた恐怖の話ですか?」
「そう、それはこれに大きく関係している」
コーヒーを全て飲み干すと、もう一杯と注文していました。私はお義兄さんにそろって、冷めた
紅茶を全て飲むと、同じように注文しました。私とお義兄さんの間には沈黙が漂っていました。
私は今までの状況から何故、私が恐怖を覚えるのかを考えていました。答えは…出てきません。
新しく頼んだコーヒーと紅茶が届くとお義兄さんは話を続けました。
「さて、何故、君が見る歩が怖いのか?それは殺したいと願っているからさ。歩は…」
「殺したい…ですか?」
「そう、君を殺したいのさ。純粋で無垢な君を…。羨ましいのさ、汚れを知らない君が…。
そして君を殺す事により自分が癒される。何故そういう心境になるのか、それはゲーム感覚で
推理しているからなのだよ。加害者の気持ちも考えずに解いてしまう自分が腹立たしい。
加害者の心の内を見ると言う事は、それは苦痛でしかない。歩は推理という刃によって加害者
を傷つけているのだ。それも、加害者の気持ちを考えてと言うより、ゲーム感覚で解く事に
よってである。それは歩を苦しめ、殺したいと願う気持ちを起こさせるのさ」
「…何故、私を抱く事により私を殺す事が出来るんですか?」
「それは純潔を失う事は肉体が死んだ事になる。精神は死ななくとも…。歩は君を何度も犯し、
それにより君を殺しているのさ」
…だから、事件から帰ってきた歩さんは昔のような、あの鋭利な刃物のような鋭い雰囲気を
まとっているのですね。それで私を殺そうとするんですね…。
「しかし、誰を抱いてもそういう事になるわけじゃない。君で無ければいけないのだ。信頼を
寄せている君でなければ…。君が抱かれている時に微かながら怯えの表情を見せるだろう?
信頼を寄せている物の裏切り、それが歩の加虐心をそそり、君を殺した事になる。そして、
歩の心の隙間が埋まるのさ。だが、その束縛から解き放つ事が出来るのは君しかいないのさ」
出てきたばかりの熱いコーヒーを一口、口にして、私の瞳をお義兄さんの瞳が射抜きました。
それは優しさと、そして何かに救いを求めるような哀れな瞳でした。
「私しか…ですか?」
「君は私と言う束縛から歩を解き放ってくれた。あれは誰でも出来た。歩を歩と見る者なら…。
しかし、今回は違う。歩が一番信頼している人物。すなわち、君しかいないのだよ。
例え、どんな推理力を持っていようとも、どんなに天才であっても、信頼という力に勝てる
ものは存在しない。これは信頼でしか解決出来ないのだ」
「……」
「君はこれからも怖い思いをするかもしれない。もしかしたら、感情の篭らない夜を過ごす事に
なる時もあるかもしれない。もしかしたら、君を傷つける夜もあるかもしれない。それでも
構わないかい?」
何かを確信するような瞳。おそらく、断らないと確信している目だった。私は決めていました。
どんな事が待っていようとも、私は…
「…それでも、構いません。私はあの人と同じ道を歩むと決めましたから…。私はあの人に
生きる事を教えてくれました。偽りの人生でも生きる事を教えてくれました。今度は私が
それを教えてあげたいんです。私を苦しみから救ってくれたように、私もあの人の苦しみを
取り除いてあげたいんです。これは私の思い上がりですか?」
「いや、その道を選んでくれると私は思っていたよ。そう、私は君にその道を選んで欲しかった。
何かあれば私かまどかに相談してくれたら良い。私達も君のお手伝いをする。君だけがその道
を歩むのは無理があるからね。一人では大変な事もあるからね」
「はい、お願いします」
「おそらく、歩の行為はエスカレートしていくだろうね。更に君を傷つけ、君の恐れる顔を見て
自分を癒すのだろう」
お義兄さんは視線を外にずらし、人の流れを見ていました。私も外の景色を眺めました。学校も
終わり、生徒達が楽しく話をしながら歩いていました。何も考えず、ただ眺めているだけで私の
心は安らいできました。さっきまでのあの思い会話が嘘のように軽い気持ちになりました。何故
か分かりません。しかし、その風景は私を癒していくのが分かりました。
「小夜子くん。君はこの光景を見て心が安らいでいくのを感じたね?」
「え、あ、はい」
さっきまで外を眺めていたはずのお義兄さんがいつの間にか私のほうに向き直っており、私を
眺めていました。
「君はこの光景を見る事により、心の傷を癒しているのさ。それが君の心の癒し。そして、歩は
君を傷つける事が心の癒し。そう、人は何かによって傷付いた心を癒しているのさ」
「…私の心は傷付いているんですか?」
「ああ、無意識のうちに人は必ず傷付いている。そして、無意識のうちにその傷を癒そうとする。
それがどう言う行為であれ、誰しもがやっているのさ」
お義兄さんはそう言うと、にこやかに笑みを浮かべ、
「さぁ、暗い話はこれぐらいにしよう。美味しいコーヒーも不味くなってしまう」
お義兄さんはそういうと二杯目の冷めたコーヒーを飲み干すと、三杯目のコーヒーとチーズ
ケーキを注文していました。私も気分を変えるために、新しい熱い紅茶とレモンのタルトを頼み、
先ほどは変わって、楽しい午後の一時をお義兄さんと過ごしました。
私を傷つける事であの人の心の傷を癒せるのなら、私はこの身を捧げるでしょう。あの人が私を
救ってくれたように、今度は私があの人の救うために……。