Maternal affection
歩は珍しく、音楽室に来ていた。いや、その行動は対して珍しい事ではなかった。珍しいのは
彼がピアノの前に立っている事だった。しかし、鍵盤には手を触れず、ただ、その白と黒の板を
見ているだけだった。弾こうとする意識と、弾けば自分の無力さが思い出すことを嫌がる拒否の
意識が争っていた。もともとピアノ好きだった彼にとってピアノが弾けないことは確かに苦痛
だった。しかし、それと同じぐらい苦痛なのが自分の無力さを思い知る事だった。何をしても兄、
鳴海清隆に劣り、そして自分を自分と見てくれない事の悔しさ、それがいつの間にか兄に対して
の尊敬に変わり、自己の嫌悪へと繋がった。それを嫌でも思い出すのがピアノである。
「…無力か…。結局、兄には敵わないんだな…」
鍵盤に向かってそう呟いた。それが最近になってさらに浮き彫りとなった。ブレードチルドレン
の戦いに巻き込まれ、兄が関わっている事がはっきりとした事により、彼は兄の手の上でもて
遊ばれていることを確信した。それが彼の雰囲気を昔の鋭利な刃物のような冷たい物に変えて
いた。
「……」
すでに外は赤く染まっており、彼の姿も赤く染めていた。それが何故か今の彼の姿に合っていた。
赤い色が合う。それだけ今の彼の心は傷付いていたのだ。
「…俺は救いを求めているのか…?」
そう言って彼は白い鍵盤を一回、軽く押した。先ほどまで無音だった教室にピアノの音が響いた。
しかし、それも少しの間だけ、また無音が音楽室を支配した。まるでこの世界には彼しかいない
ような錯覚さえ覚える無音の空間。その空間を時折、破るようにピアノの音が鳴り響く。それは
単なる音でしかない。しかし、彼はピアノの前に座ると、彼はその指先から美しく儚い音色が
流れ始めた。その音が音楽室の無音の空間に響き渡った。その時、ピアノの音以外にもう一つの
音がその空間に響き渡った。
“ガチャ”
その音でまた音楽室は無音の空間に変わった。その無音の空間に変わった音楽室に女性特有の
高い声が聞こえた。
「やめるんですか?」
その女の子は優しい声で歩に問い掛けた。
「ああ、余り人前で弾くのは好きじゃないんでね」
「それは残念です。鳴海さんのピアノを一度、聞いてみたかったんですが…」
彼女はそう言ったあと「圭さんが『鳴海清隆の弟だからきっといい音色よ』と言っていたので」
と続けた。歩は裏切られたような気持ちになった。今までこいつは自分の事を見てくれていると
思っていたのだが……。結局、自分は“鳴海清隆の弟”なんだと思い知らされた。
「……」
「鳴海さん?」
「…なんだ」
彼は彼女の前でも、あの鋭利な刃物のような冷たい雰囲気を纏っていた。もう誰も信じられない。
結局は俺を俺と見てくれる者なんか居ないんだ。彼はそういった絶望に包まれた。
「…今日の鳴海さん、少し変ですが…」
「…別に今までどおりだ」
「昔のような冷たい雰囲気を纏ってますよ」
「……」
歩は小夜子の顔を見ず、ただ鍵盤を眺めていた。しばし、二人の間に沈黙が支配した。彼女が
来る前の無音が支配していた音楽室に戻った。いや、前の音楽室にはまだ“希望”と言う名の
暖かい雰囲気が残っていた。しかし、今のこの空間には“絶望”と言う名の冷たい雰囲気が
支配していた。もう誰も受け付けない、そんな雰囲気だった。彼は彼女に向かって「別に今まで
どおりだ」と言ったが、彼女の感性はその違いをしっかりと感じていた。そう、彼の纏って居る
のは雰囲気は昔のあの冷たい鋭利な刃物のよう危険な誰も寄せ付けない雰囲気だった。それは
今でも纏っているのだが、彼女、小夜子の前では暖かい春風のような雰囲気で話していたのだが、
それも無くなっていた。
「…鳴海さん、何か気に障るような事を言いましたか?もし、言っていたのなら謝ります」
「…別に」
「…嘘…ですね。それならいつもの雰囲気と違います」
「それはお前の勘違いだろ?」
「……」
二人の間に再度、沈黙が訪れた。普段の沈黙とは違い、かなり気まずい険悪な沈黙だった。
小夜子は自分の今までの言った言葉を思い返した。何か思い当たる節は……。あった。彼女は
一つ思い当たる言葉があった。そう、圭から聞いた言葉をそのまま言った事。
『鳴海清隆の弟だからきっといい音色よ』
この言葉が歩の心を傷つけたのだ。歩が一番気にしており、言われたくなかった事。それを
言ってしまった自分に後悔をした。“鳴海清隆の弟”という彼の代名詞。その事が彼にとって
最大の苦痛であって、認められない事の悔しさ、勝つ事の出来ない苛立ち、その事を自分に
話してくれたにも関わらず……。
「ごめんなさい」
「何を謝っているんだ?」
「ごめんなさい」
「だから…」
「鳴海清隆の弟といってしまって…」
「…事実だろ?」
「……」
言い返すことが出来なかった。もしかしたら今まで小夜子自身も他の人と同様に自分も彼の事を
鳴海清隆の“弟”としか見ていなかったのか…。“違う”と言い切れない自分が腹立たしかった。
彼の本音を聞いていながら力になれなかった。
「別にあんたは悪くない。それが俺の力の上限なんだからな」
「…ごめんなさい」
「だから…何が?」
「あなたに酷い事を言ったから…」
「事実だといってるだろ?」
「……」
「俺は鳴海清隆の弟でしかないんだ。誰も俺を俺と見てくれない。家族も、義姉さんも、友人も」
「でも、それが事実であっても……私」
今まで歩はピアノの前に座っていたが立ち上がると、彼は小夜子の立っている所、音楽室の
出入り口へ近づいていった。
「この世の中は“真実”か“偽り”しかないんだ。そして、兄貴に敵わないのは真実であって、
偽りじゃないんだ。その真実を俺は言ったまでだ。そしてお前の判断も正しい。家族も、
義姉さんもそうだ…」
彼は小夜子の耳元でそう言った。確かにそうかもしれない。彼の言う通りこの世は真実と偽りの
二つしか無いのかもしれない。しかし、それだけでは済まないものがある。それが感情である。
「待ってください」
小夜子は音楽室を出て行こうとしていた歩の服を掴んで引き止めた。
「ん、何だ?」
「確かに真実と偽りがこの世界を支配していると思います。でも、済まないのが感情のでは
無いんですか?」
「……」
「鳴海さん、あなたは頭でそう分かっていても心では納得してないんじゃないんですか?」
「そうだとしたらどうする?」
「…え?」
「もし、そうだとしたらどうなんだ!俺は弟としてしか見てもらえない!俺だって自分自身を
見て欲しい!でも、俺は兄貴に敵わないんだ!今回だってそうだ。結局、兄貴の手の上で
遊ばれてるんだ!」
歩が珍しく小夜子の前で感情を露にした。未だ全貌が図らないブレードチルドレンの問題に
対しての苛立ち。それを彼女にぶつけてしまった。
「……今からでは遅いですか?」
歩の怒鳴り声が止んだ後、小夜子の静かな落ち着いた声が音楽室に響き渡った。
「え?」
「今から私があなたのことを“弟”としてではなく、“鳴海歩”と見ても遅いですか?」
小夜子は歩の正面に立って続けた。
「今からではあなたが持っている心の傷の痛みを和らげる事が出来ませんか?」
「……」
「例え、私以外の人があなたの事を“弟”として見たとしても、私はあなたの事を“鳴海歩”と
見ます…」
先ほどとは違い、決意に満ちた瞳。その瞳が歩の瞳を射抜いていた。歩はその奥にある一つの
感情に気がついた。それは彼自身が幼少期に受ける事の無かった暖かいもの。女性特有の想い
“母性愛”
歩は彼女の瞳の奥にあった一つの想い、この母性愛を見つけた。彼を見る時の彼女の気持ち。
いつもその感情が瞳に篭っていたのだろう。だから、歩は彼女との交流が深まったあの昼休みに
思わず口にした言葉
『相談とか乗ってくれるのか?』
それは彼女の瞳の奥に見つけたからだろう。ここ最近、彼女が傍にくる事を期待している気持ち。
この気持ちも恐らく、彼女の瞳の奥に見つけたあの愛情に惹かれたからだろう。今まで感じる
事が出来なかったこの愛情。それを彼女はもっていたのでそれを歩は求めていたのだろう。
そして今も、彼女に自分自身を見ると言ってもらい、彼の気持ちは暖かいものに包まれていた。
「…俺はお前がここに来る前にピアノを眺めながら俺はあんたの事を考えてた。何故、俺に
構うのか?何故、俺はあんたがくる事を期待しているのか」
「…鳴海さん」
「俺はあんたのその瞳に魅入られたんだ。俺はあんたのその瞳の奥に秘められた優しさを求めて
いたんだと思う」
歩は窓の外を見ながら、そう言った。彼の顔は赤く染まっていた。それは窓から入って来る、
もうほとんど沈みかかっているその太陽が照らしているのか、それとも彼自身の告白が恥ずかし
かったのか?どちらか分からないが、小夜子にとってその言葉だけで十分だった。今度は
小夜子が歩の耳元で
「ずっと傍に居ますよ。あなたに嫌がられても……」
そう言って、彼女は走り去るように駆け足で音楽室を出て行った。歩はそんな彼女の後ろ姿に
向けて「今度、聞かせてやるよ」と聞こえないように呟いた。そして、鞄を持って彼も音楽室を
後にした。その音楽室は、彼が部屋にいた時と同じように無音がその空間を支配していたが、
その空間は暖かい母親の愛情のような雰囲気が充満していた。その空間を照らすように最後の
輝きのごとく、赤く、赤く、太陽が照らしていた。外に闇が訪れるのもまもなくだった…。