書物としての新約聖書
 著者   田川健三
 発行所  勁草書房
 出版年  1997.3.31 第1版第4刷 1997.1.25 第1版第1刷
 頁数   706+39ページ
 価格   ¥8240
田川健三              書物としての新約聖書
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書物としての新約聖書 目次


正統派教会による新約正典の結集 173ページ
 もっとも、根本的な問題として、過去の文書を正典として読むということ自体がはらむ根本的な問題がある。
それでは過去の文書の真実の姿を見失うことになり、従ってまた、それらの文書がそれぞれの時代に持ってい
たすぐれた意味を認識することもできなくなる。過去の文書としてでなく、現在のキリスト教会、現在の世界
にもそのままあてはまる永遠・不動の真理として読むから、原文の意味を正確に読むという姿勢は放棄され、
実際には、現在の教会にとって都合のいいことを聖書の中に読み込む、ということになる。つまり、聖書を、
自分の勝手な思いを映し出す鏡として利用するだけのことになる。その結果、これらのすぐれた文書のすぐれ
た点を理解することもできなくなるのだ。正典宗教というものの根本的な問題である。
 けれどもキリスト教会がその問題に対して誠実に対処しようと思えば、キリスト教が正典宗教であることを
やめれば、いったい何になるのか、という難しい問題に直面することになる。現在のキリスト教の中で、誠実
な姿勢を保っている流れのすべてが直面している問題である。これらの人類史上稀に見るすぐれた文書を、自
分たちの中に生かしつつ、かつ正典宗教であることの欠陥をどのように避けることができるか、という問いで
ある。



新約聖書のギリシャ語 323ページ
 ギリシャ語なんぞしゃべれない人、それが通じない人、それがしゃべれないからさまざまな不利益を蒙って
いた人は、非支配者の中には大勢いた。その事実を無視して「あまねく」流布していた(注=ギリシャ・ロー
マ文化の世界の民衆にギリシャ語が流布使用されていたとする見解)、などと言ったら、その人たちに対して
失礼というものである。(この無神経は、現代世界において、世界中どこに行っても必ず英語が通じなければ
ならないと思い込んでいるアメリカ人や日本人の無神経と共通する。というよりも、現代世界の状況に対して
このように無神経だから、古代の世界の現実も見えないのである。あるいは、古代の世界の現実を正確に見る
目がないから、現代世界の状況も見えないのである。)                                
 「民衆語」というのもむろん違う。確かに都市の民衆ならギリシャ語を話しただろう。しかし、話したから
民衆語である、というわけにはいかない。ヘレニズム的都市で生きぬいていくためには、自分の母語を話して
も通じないので、仕方がないからギリシャ語を話していたのである。都市民衆が帝国支配の言語を話すことを
余儀なくされているからとて、それを「民衆語」と呼ぶなど、とんでもないことである。                   
                                   


聖書翻訳の社会的機構 510ページ
 パウロがローマのキリスト教徒に「兄弟たち」と呼びかけているところ。当然ふつうの英訳なら brothers 
とするところ。それを新RSVでは brothers and sisters にしてしまった。しかしこれでは改竄と言われて
も仕方がないだろう。パウロが現代風のフェミニストであるわけはないのだ。それどころか、新約聖書全体の
中でもぬきんでて女性に対する偏見の強い著者である。一種の性的忌避感が異様なまでに強い人物である。こ
の場合は単なる呼びかけだから、それほどまでの問題ではないにせよ、古代社会の男性優位の価値観をそのま
ま表現している。すなわち、男女両性を含んだ人々の集団に対する呼びかけを男性だけで代表させている。パ
ウロもそういう言い方に何の疑問もさしはさまなかった。



聖書翻訳の社会的機構 511−512ページ
 聖書は現在の教会の視点からして「正しい」とされるものを表現していなければならない、という姿勢こそ、
宗教的ドグマの最たるものであるのだ。なお、この場合の「教会の視点」は、かつてのヨーロッパにおけるよ
うに教会が最大の社会的勢力であった場合には多く教会がみずから率先して作り出したものであるが、現代に
おいては世俗の世論の方が先に進んでおり、教会もまた世論に遅れまいとそれに歩調をあわせることになる。
しかし、世論の方は単純明快に、現在の社会ないしこれからのあるべき社会はこうあるのが正しい、と主張し
ているだけなのだが、教会のドグマはそれを、キリスト教ははじめからそう考えていた、だからキリスト教は
はじめから正義の宗教なのだ、と言い張ろうとする。このように世俗の正しさに追随するのは、それ自体とし
ては結構なことだが、やはり追随者は追随者としてのつつましさを身につけるべきだろう。教会は今まで間違
っていましたが、これからは、非宗教的批判者が作り出した正義に追随させていただきます、と謙虚に言えば
よろしい。



英語訳聖書の歴史 567ページ
 イギリスでは欽定訳が実に長いこと独占的な支配をつづけた。その後、個人訳の試みはいろいろあったもの
の、教会当局による公的な翻訳は二七〇年間もなされなかったのだから、おそれいる。イギリスという保守的
な国における国王の権力ないし国家権力の大きさの現れである。そのことを間違って、翻訳の優秀さ(欽定訳
はすぐれているからこんな長い間改訂されなかった)のせいである、などと思い込んではならない。
 学者たちや良心的な牧師、信者たちは、欽定訳をいつまでも変更せずに用い続ける状態に困っていたことだ
ろう。それがやっと日の目を見たのが、この改訂訳である。
                                                   


英語訳聖書の歴史 568−569ページ
 英語というのは、ヨーロッパ語であるくせにヨーロッパ語としての文法が整っていないから、実はひどく不
便な言語なのである。こういう不便な言語が世界を支配したのは決して、それがわかりやすいからでも、覚え
やすいからでもないので、単に、近現代帝国主義国家の中でも英米が最も強大だったというだけの話にすぎな
い。       
                                     


英語訳聖書の歴史 586ページ
 聖書のテクストを説教の題材に用いたがる牧師、司祭は大勢いる。というよりも、キリスト教の説教という
ものは、たてまえからすれば常にそういう趣旨のものである。けれども、説教はしょせん説教であって、聖書
のテクストにことよせて、宗教家が自分の信心を表白するものでしかない。もちろん、説教の中には人の心を
打つすぐれた説教もある。他方では、つまらぬ低水準の思いこみの羅列を信仰の名前で語っていることも多い
けれども。しかし、すぐれていようと愚劣であろうと、説教は説教である。いかに聖書のせりふにことよせて
いようと、それは本人の信心の表白でしかない。      
                                    


英語訳聖書の歴史 597ページ
 「神の義」とは、単に「神が人間たちを神との正しい関係におく」というだけのことではない。もっと壮大
な、人智を越えた事柄のはずである。それはまず何よりも、神みずからの存在が義であることを意味し、その
神が義をつくりだす存在であることを意味する。それは決して単に神と人間との間の関係にとどまらず、神と
被造世界全体との関係にもあてはまる。また、それと対応する人間の側にしても、「義」とは、神との正しい
関係だけでなく。人間どうし、あるいは人間と被造世界全体との関係をも意味する。
 人間が神によって義とされるということは、ひるがえって、今度はその人間自身が周辺の世界に対して義を
つくりだす存在になるということだ。             
                                    


英語訳聖書の歴史 568−569ページ
 確かに、近代人にとっては、この「血」の表象はすぐには理解しがたい。それは古代地中海世界やオリエン
ト世界の神殿祭儀における血の犠牲を背景としているからである。神殿で人々は神様に生きた動物(家畜)犠
牲として捧げた。それも単にささげるだけでなく、祭壇でその獣の生き血を全部流して、神に奉納したのであ
る。獣の生き血を好むなど、まさに文字どおり血なまぐさい神様だと思うけれども、遊牧・牧畜を生活の基本
とする民族にとっては、最も大切なものを神様にささげることが意味があったのである。けれどもやがて、彼
らの世界でも、こういう祭儀は重荷となってくる。神殿祭儀を維持しつづけるのは、その社会の民衆にとって
大きな負担なのだ。それに対して、神の子がすべての犠牲の代りに、一回限り、十字架の上で血を流して下さ
ったことにより、もはや神殿祭儀はなくなった、というのがこの信仰の話のみそである。……
 それまでの諸宗教では、「罪」を赦され、「罪」から清められるためには、その都度神殿に犠牲の獣をささ
げねばならなかったのに対して、キリスト教信仰は人々をそこから解放してくれたのである。神の子の「血」
によって救われる、といのは、そういうことなのだ。                                  



田川健三  書物としての新約聖書  1997 勁草書房 706+39n