教会の本質
 著者   ディートリッヒ・ボンヘッファー
 訳者   森野善右衛門
 発行所  新教出版社
 出版年  1976.9.15 初版
 頁数   196ページ
 価格   ¥.1200
      
ボンヘッファー                  教会の本質  集まり(3 宣教と教会 b) 57−59ページ 下線の部分は原語またはフリガナ。文末にまとめて記した。  言葉があるところでは、その言葉のまわりに集まりがなければならない。神の言葉は、われわれにとってまず第一 に、礼拝する集まりにおいて存在する。言葉に参与することは、具体的には集まりに参加することを意味する。原始 教団の人たちにとって、それは自明のことであった。集まりにおいて、霊を受けること、言葉を語り、それが聞かれ るという奇跡、また罪の赦しが起こるのである。カトリック教会においては、かつては自明であったことが義務化さ れ、厳しく命じられることになった。そのことは確かに〔原始教団からの〕背反である。しかしそこでは絶えず、集 まることの有意義性が覚えられている。ルターと宗教改革は、礼拝生活は自由で自明的なことであることを認めてい るが、集まりから離れた個人の自由をみとめようとはしていない。もしプロテスタンティズムにおいて、個人的敬虔 の体験が重要なこととなったとしたら、それは一つの顛倒であった。原始キリスト教においては直接的に自明的であ ったことが、考察の対象となった。そこで以下のような致命的な問いが出てくる。礼拝に行って何を得るのか。そも そもなぜ教会へ行くのか。そうなると、教会はどうも面白くない、説教がよくない、などという典型的に個人主義的 なきめつけを避けることはできなくなる。ひとはもはや、集まりに出かけて行くためのもっともな理由を見出すこと はできない。理由を挙げることはここでは偽りである。集まりは奇跡そのものであり、神の行為そのものである。わ たしはキリストに属するゆえに集まりに属するのである。言葉があるところに、わたしもまず第一にある。わたしは 集まりの中にいるのである。そこでわたしはまた、わたしの母親から何を得るのか、と問うこともできない。わたし は、全く単純に母親に属するのである!  なぜ原始キリスト教においては、あのように直接的な自明性が可能であったのか。またそのことがわれわれの場合 にはなぜもはやそうではなくなっているのであろうか。当時、集まりにおいては、何事かが起こったのである。その 啓示における神が臨在した。人びとは神の意志を了解したのである。ひとはそこから彼の実存を受けたことを知り、 また神がわれわれに常にくり返しわれわれの実存を新たに与えたもうことを知ったのである。何のためにひとは集ま りに行くのかという問いは、全く現れえなかった。われわれは、〔今日〕そのようなことを何も礼拝には期待してい ない。われわれには何か妨げるものがあるのだろうか。分派や政治的グループは、彼等の集まりにとってそのような 妨げを知らないように思われる。しかし、なぜわれわれの場合にはそのような妨げがあるのだろうか。それは高慢で あるのか。それは福音の誤った宣教であるのか。神はその約束を撤回されたのか。それは教会にとって死に至る病で あるのか。
 教会のこの世性とキリスト教性 82−86ページ  われわれの具体的な教会について、われわれは今までずっと語ってきた。それは真の教会である。われわれはその ような教会を期待するのではなく、その教会はすでに存在しているのである。われわれは教会に関する限り待降節の 中にあるのではなく、すでにもたらされた成就の中を生きているのである。キリストはその教会において、今日、現 在したもう。教会は決して理想ではなくて、この世における現実の一部分である。教会のこの世性は、キリストの受 肉からくる。教会は、キリストがそうであるようにこの世となった。具体的な教会をただ見せかけの教会にすぎない と考えることは、イエスの真の人間性の否定であり、したがって異端的な考え方である。教会は全くこの世である。 そのことはまた、教会がこの世のあらゆる弱さと苦難の下に身を屈するということを意味している。教会は、イエス ・キリストご自身がそうであったように、時として宿るところなき状態になることがありうる。それはそうでなけれ ばならない。現実の人間のために、教会は全くこの世的でなければならない。それはわれわれにとって益となるこの 世性である。真正のこの世性は、教会があらゆる特権とあらゆる所有とを断念することができ、ただキリストの言葉 と罪の赦しにのみ依り頼むときに成り立つ。キリストと罪に赦しとを背に負うことによって教会は、他のすべてのも のを手放す自由を得る。  教会はこの世にあり、それ自身この世の一部であるゆえに、教会は聖徒の交わりを目に見えるように表現しようと することはできない。この世性とは、純粋性の理想を断念することを意味している。〔しかしそのことは〕世俗化と は何も関係はない。教会はその出発点から、この世となったものとして、決して純粋で理想的なものではなかった。 原始キリスト教といえども、決してそうではなかったのである!もしそうであるとすると、ひとは教会と宗教的共同 体とを、また福音と理想的体験とを混同しているのである。完全主義的な分派主義は、ギリシア的な神秘主義からト ルストイに至るまで、神の国それ自身を描き出そうと試みて来た(マタイ 11:12)。ひとは神の国の掩いを取り除こ うとする。ひとは神の国を人間の聖性において目に見えるものにしようとする。しかし教会は、この世となった啓示 のかたちであるから、このような試みがうまく行くはずはないのである。教会は、自分自身とこの世の前で、自分を 義としようとすることは許されていない。教会が義とされるのは、神からくるのである。最後の審判の宣告を、教会 は先取りすることはできない。「汝、裁くなかれ」といういましめは、この場合にも妥当するのである。神は毒麦と 麦とを抜き分けることを留保したまもうた〔マタイ 13:24−30〕。  したがって、教会は、洗礼を受けた者の教会であり、そしてそれと共にまた罪人の共同体である。受洗者はすべて、 彼の所業が常にまたそのような外観を呈するであろうように、この罪人の共同体に属している。罪汚れなきものであ ろうとすることを断念することによって、教会は、罪あるこの世と連帯するようにと導き帰される。教会は、この世 とは何であるかを〔この世よりも〕よりよく知っている。教会は、この世が自分自身を理解するよりもより深くこの 世を理解する。教会はこの世的存在であることを大胆に告白することによって、教会はまさにこの世から自由となり、 キリスト教的となる。そこで教会は、この世の神聖性ということにはもはやいかなる顧慮をも払わない。教会は、ま さに卑賤者に対して自由であるのと同様に、また貴人に対しても自由である。教会は、ただ単に貧者と共にあるだけ ではなく、また富者とも共にあり、敬虔者と共にあるだけでなく、また、神無き者とも共にあるのである。すべては この世である。教会はこの両方のグループに対して、同様にとらわれない心をもって接する。巨魁には、自分を失う かも知れないことを恐れて、そこから遠ざかろうとする領域が一つでもあることは許されない。信仰は、卑賤者のた めにも富者のためにも、この世をまったく克服したのである。自らこの世的であることを告白し、完全な教会であろ うとすることを断念した教会だけが、全く自由なのである。  もちろん、教会のこの世性はまた、その限界を持つのであり、その限界については真剣に考えられなければならな いのである。その限界は、教会のキリスト教性にある。この世性の限界の中で、教会はその成員の純粋性について配 慮するのである。教会は、その成員を絶えず訓練しなければならない。教会は、その各成員が放縦におちいることを いましめなければならない。教会は、教えの純粋性を確保するために、労苦を惜しんではならない。教会は、礼拝を 政治や耽美主義に引き渡してはならない。牧師は、道徳家煽動者、また坊主臭い人間であってはならない。そのよ うな態度では、この世を克服することはできない。神学者がよくやるような、ことさらに強調された、わざとらしい この世性は、鼻もちならぬものである。そうすることによって、ひとはただ軽蔑に身をゆだねるのであり、それはた だ悪い意味でこの世的となることである。それは、この世に対して不安を持っていることの現れである。このような 事柄に対しては、教会は最も鋭く、教会の純粋性を確保するように配慮しなければならない。――したがって、教会 はまた、あえて教会的な交わりを断つ勇気を持たなければならない。しかしそのことは、ただ教会それ自身が危険に 瀕した時にのみ取らるべき最後的な処置でありうる。そこでひとは、教会が与えることのできない、また与えること を許されてもいないことを、教会に期待し要求するのである。〔教会に〕当然求められるべき期待の限界は、今日で はすでに踏み越えられており、したがって教会的な交わりを断つべき時期がきているように見える。〔しかし〕もち ろん、そのような行為をなすための具体的で教会的な基準はまだ存在しない。今日、挙げられている基準は、あまり に個人主義的であり、かつ決疑論的であるように思われる。それに加えて、その限界というものは、決して初めから 精密に定められるものではない。限界は状況と共に変転し、決断はただ具体的な瞬間においてのみなされるうるので ある。そしてまた、どのような場所と形式において、教会としての交わりを断つことを宣言すべきかという問題が残 される。…… 真の教会(wahre Kirche) 待降節アドヴェント 理想(Ideal) 現実(Wirklichkeit) (教会の)この世性(Weltlichkeit) 見せかけの教会(Scheinkirche) 教会キルヘ 交わりゲマインデ この世的存在(Welt-Sein) 完全な教会(ecclesia perfecta) (教会の)キリスト教性(Christlichkeit) 道徳家モラリスト 煽動者デマゴーグ 交わりを断つ(Exkommunikation)
   目 次  序章 教会についての今日的な問い  第一部 教会の場所   A アダムとキリスト   B 教会とキリスト    1 教会を基礎づけるものとしてのキリストの代理的な行為/2 イェス・キリストと教会の基礎/3 キリストに      おける、キリストを通しての、教会の基礎構造/まとめ/付論   C 行動する教会    1 聖霊とキリスト/2 教会と宗教的共同体/3 宣教と教会/4 万人祭司性   D 教会のこの世性とキリスト教性   E 教会の限界    1 神の国/2 国家  キリスト教倫理は存在するか   序 言   T 倫理の終り(律法の終り)としての福音    1 カール・バルト/2 パウル・アルトハウス/3 フリードリッヒ・ゴーガルテン   U 福音に基づく新しい倫理    1 命令する神の意志についての個人的な知識/2 説教における命令する神の意志の宣教的確言/3 神学的倫理の可能性  説 教     教 会        音 楽    秘 義     解説――あとがきに代えて  聖句索引  人名索引  事項索引