希和対訳 マタイ福音書 上   岩隅 直訳註      山本書店 1989                   山本書店主の山本七平氏が出版人としてのライフワークだったのではないかと思わ  れるこの対訳シリーズは、聖書を翻訳で読むだけでなく一歩でも原文に近づき、また  自国語にもどって理解をより深いものにすることができるようにという目的で出版さ       れた。ふつう日本語の聖書を読んでいるときは日本語の概念で解釈しているのでその       背景にある生活、文化、地勢などから理解することは難しいところがある。注がつい       ていても訳者の解説であって原文のニュアンスをうかがうには無理がある。新約聖書       の世界に近づけてくれるこのシリーズの意義は大きいのではあるまいか。    
 

  そこで彼は舟に乗って(湖を)渡り、自分の町(カファルナウーム)へ来られた。        すると見よ、人びとが寝床に寝ている中風患者を彼のところに運んで来た。イエースースは彼  らの信仰を見て、その中風患者に言われた、「子よ、安心せよ、君の罪は赦された」。するとど  うだろう!数人の聖書学者は、「この者は(神を)冒涜している」と心で思った。イエースース  は彼らの考えを知って言われた、「なぜ君たちは心の中で悪いことを考えているのか。(君の罪  は赦された)と言うのと、(立って歩け)と言うのと、いったいどちらの方がたやすいか。人の  子が地上で罪を赦す全権を持っていることを、君たちが知るために」(と言って)――それから  彼は中風患者に言われる――「立って君の寝床をかつげ、そして家に帰れ」。すると彼は立ち上  がって家へ帰って行った。群衆は(これを)見て恐れを抱いた。そしてこのような全権を人間に  与え給う神を讃美した。                                                          マタイ福音書9章1―8節(本文から)   την ιδιαν πολιν 「つまり、彼がそこの市民である町へ。―町の完全な市民権は  一つの町に十二か月間滞在することによって得られた。その町はそのことによってその人にとり  (彼の)町になる。十二か月一つの町に滞在しない人は町の居住者の階層をなす。彼らは町の半  市民である。」(Billerbeck 1巻495p.)(一節 「自分の町へ……」についての註)  δ υιοσ ανθρωπσυ 「人の子」とはアラム語としては「人間」の意。しかし当時  ダニ7:16によって、メッシアースの働きをする天的存在者の称号となっていたもの、それがイ  エースースの自称として用いられている。その由来については諸説がある。拙著「新約ギリシャ  語辞典」477p参照。しかしここでは「人間」の意と言う人(Wellhausen,Klostermann,M'Neile)  もある。「神だけがその権威をもっておられる(7節)としても、それでも神から遣わされた人、  ここでは私、も地上で罪を赦すための派生された権能を受け取ることができると、イエスース自  身が論じられたのであろう」(Klostermann)。