少年術科学校 普通学科 防衛庁教官 東 谷 素 子

              

“カッターのこと”

 腕を背中に組んだまま、松の幹によりかかって笑っている。写真は一昨年の6月はじめ、私が江田島に赴任して、やっとひと月ばかりたった頃のものである。それは又、一緒に着任してその日から同じ屋根の下で寝食を共にするようになった同僚のY教官が撮影してくれたものであった。着任そうそう、二人がどんなにハリキッているかを写真に写して郷里の家族たちに送ってやろうという相談は、早くからまとまっていた。

 ある日の課業止め後、カメラを下げて生徒館横の松並木をぶらつきながら、水入らずの撮影会を楽しんでいるところへ、13期の生徒が14、5名何やらはしゃぎながらやって来た。声をかけると、近く行われる短艇競技の練習をするのだそうだ。そこへ班長さんがやって来て、私たちを乗せると言い出した。「おーい、みんなー、お2人の教官をわしべまでお送りしよー!」と、出艇の用意に忙しい生徒達の群れに向かって快活に大喝した。「おーう!」という、歓声とも笑声ともつかぬ声がはねかえってきた。どうしよう!私はY教官の方を見た。実の所私は、当地に来るまでカッターなどというものは見たことさえなかったのだ。おまけに全くのかなづちときている。恐ろしさと好奇心が、めまぐるしく頭をあげさげしてやまなかった。

 艇は勢いよくすべり出した。艇指揮や艇長の傍らにすわらされて、私達はまともに生徒達と向かい合うはめになった。馴れない当時では、まだまだ彼らの視線をまともに受ける勇気はなかった。私達の目は、自然、美しい江田内の景色や、迅速に動く12本の櫂の先に注がれた。その日は本当によく晴れ上がっていた。深い海の青さ、幾重にも重なる能美の山々の稜線の美しさ、空の広さ、風の暖かさ。北九州のごみごみした町中に育った私は、新奇な感覚に陶然となった。しかし次の瞬間、私は生涯を通じて、おそらくは決して忘れることのないであろう光景に目を奪われていた。

 12本の櫂が、海の面にざっくりとくい入った時、私は何気なく生徒達の方を見た。そうして大きく目を見張った。半裸の生徒達は皆、ほとんど仰向けに倒れて歯を食いしばっていた。双の腕の筋肉は、豊かにもり上がり、ぴくぴくとけいれんしていた。額には、美しいしずくが光っていた。「ギリッ」「ギリッ」ときしむ船べりには、強烈な汗のにおいが立ちこめた。それから又、あらゆる若い筋肉の弛緩と硬直とが繰り返された。

私は目を見開いて凝視した。このようなものは、このようにまばゆいものは、このような美しいものは、このような力強いものは、はじめて見た。本当に生まれてはじめて目にしたのだ。雨の降る日は雨が降るからという口実で、日の照る日は日が照るという口実で、ただひたすら「家の中」に居ることを小さい頃から好んできた自分が、太陽の下で半裸になり、無心の汗を流しているこんな火のような生徒達に、いったい何を教えることができるというのか。健康な精神よりも、不健康な精神の方に、より興味と関心を抱いて生きてきた自分が、健康な精神の持主達に向かって一体彼らの精神を伸ばすためのどんな助言を与えることができるというのか。

 船べりには相変わらず、「ギリッ」「ギリッ」という恐ろしい摩擦音が続いていた。私は愕然として黙りこんだ。

 やがて船は、わしべの浅瀬にとまった。班長さんがひとりひとりの手を引いて、ふたりを足場の確かな岩の上に降ろしてくれた。それを見て、生徒達は爆笑し、ヤンヤと囃したてた。岸壁に上がってふたりが手を振る頃には、カッターはもう浅瀬を離れていた。

「こわいものを見た。」私は一層深く黙りこんで、家の方に歩き出した。

“休暇のこと”

 8月の休暇が近づくと、生徒館はいつも落ちつかなくなってくる。全国各地から集まってくる15、6歳〜18、9歳の年若い生徒達が、一刻も早くふるさとに帰りたがるのは無理もないはなしである。とくに、入隊して間もない一年生達はすっかり落ち着きを失って、授業にも身が入らなくなってしまうのである。もっとも授業に身が入らないのは生徒達ばかりでもない。赴任した年の夏も、教務中に帰省時の列車の時間を調べている一年生徒を叱りながら、その実、もうすぐ会えるふるさとの父母のことを思って、すでに心の均衡を失っている自分自身の心にも気づいていた。

 そんなある日、私は一年生の講堂に原稿用紙を持ち込んで、「故郷」という題で作文をするように指示したことがある。「作文」となれば一同揃って悲憤慷慨し、たちまち騒然となる講堂が板書された「故郷」という題にあやされてか、その日は妙に粛然としていた。

 紙が配られて15分も経った頃には、講堂は異様な雰囲気を帯びてきた。まだ用紙のます目をうめている者はいない。多くは右手に鉛筆を持ったまま、頭を好みの角度に傾けて、うるんだ、夢見るような瞳をして、じーっと、宙を睨んでいる。講堂は静まりかえっている。腕白この上ないA生徒も、おとなしいB生徒も、居眠り常習のC生徒も、すべてが時を同じくして、それぞれの「故郷」をさまざまに夢見ている光景は、まさに異様としか言いようがなかった。私は、一つの夢見る空間と化した講堂の片隅に立って、そうしてしんみりとひとつひとつの瞳を味わいながら、同時に教師としての喜びを深々と味わうことができたのである。

“敬礼のこと”

 第一次大戦に取材したカロッサの「ルーマニア日記」のはじめに、感動的な敬礼のはなしがのっている。それは、ドイツ軍の歩兵ヴィンマーが、フランス内を行軍中、父親のいる砲兵隊とすれ違うくだりである。遠い戦地で偶然に出会った父と子は、感激的な瞬間を共にするが、「叉銃線につけ」の号令は息子ヴィンマーの上にも容赦なくひびき渡るのだった。原文では次のように書かれている。「既に隊伍に入った息子は、部隊が歩き出した瞬間、軍隊の中で許された唯一の手段で、とっさに自分の感動を表現した。つまり父親は何の階級もないただの兵だったのにもかかわらず、息子のヴィンマーはあとにのこる父親の前で最敬礼をした。感動的な態度だった。見守る人々の間には、かすかな、好意の笑声が起こった。」(高橋義孝訳)

 当地に来てから2年、私はすでに幾人ものヴィンマー青年に出会ってきた。廊下の往き来にとりかわす、形式的な敬礼に、私はさして感動しない。私が最も心打たれるのは、学校を離れた場所で生徒達と何らかの心の疎通があった後、多くはその別れぎわに生徒達が示す、あの敬虔で純情で熱烈な敬礼に出会う時である。

初めての夏休暇の時偶然2人の生徒と同じ汽車に乗り合わせたことがある。2人がけの特急座席に、立ち座券しか持たない私までもが割り込んで、お菓子を食べるやら、笑うやら、それは楽しい旅行であった。弟のいない私は、まるでもう姉貴気どりで、大はしゃぎだった。ところが3時間ばかり経った頃、一方の生徒の顔色が急に悪くなってきた。汽車に酔ったのである。私達2人は色々に励ましのことばをかけて慰めた。しかし当人はかえって恐縮し、「大丈夫です。」「すみません。」をかわるがわるに繰りかえして、せっかくの旅を台なしにした自らのふがいなさに唇をかんでいるといった様子であった。列車が関門海峡を抜けたので、私はそろそろ降り支度を始めた。すると2人は妙にシーンとしてしまった。荷物をさげて、通路に立ち、「じゃあ」と言ってふりかえると、2人はすでに申し合わせたように棒立ちになり、感動的なヴィンマー青年の敬礼を贈ってくれていた。私はてれかくしに笑ったが、2人はにこりともしなかった。

 また、厳父の訃音で帰省していて、試験の受けられなかった1年生に追試をやったことがある。誰もいない課業止め後の教官室で、私は2人分の湯をわかしながらD生徒を待った。テストが終わると自然な気もちにかえってお茶をいれ、用意してきたお菓子をすすめた。D生徒は、まぶたを赤く染めながら、内気そうにお茶を飲んだ。やがて、問わず語りに「父の死」が語られた。ボソボソと遠慮がちに語られる東北弁を聞き分けるのは容易ではなかったが、それでも私は十分に感動しながら聞いていた。「埋葬の日は、雪が深くて大変だった」と言うときに、「雪ゴガフカクテ」と言った、あのことばの悲しい抑揚を忘れない。D生徒は椅子から立ち上がると、礼儀正しい敬礼をした。それから又、出口のついたてのところまで行って直立し、例のヴィンマー青年の敬礼をした。あのまなざしと敬礼とは、今でも私の心に映っている。

“思うこと”

 教壇に立って授業をしながら、いくどか嘆声を漏らしたことがある。講堂のガラス窓を通して、真向かいに見える晴れの日の江田内の景色は、実際見る人をして深く感動せしめるに足る美観である。しばし放心した後、私は生徒達に向かってにくまれ口をたたいたものだ。「あぁ、目の保養になりました。あなた達を見たあとでは、向かいの山々が一段と美しく思われます。」わが生徒達、勿論負けてなんかいられる筈がない。「お互いさまだ!」いつも辛辣な揶揄をとばしては、講堂に笑いを巻き起こすE君が、間髪を入れず応酬して、一同の喝采をあびるのが常だった。ともかく、海軍兵学校時代からの由緒ある歴史と、海洋的な明るい島の景色とに恵まれた術科学校で、溌剌たる若者達とともに勉強のできることは何よりのしあわせである。しかも教壇に立って、海と山とを一望できる講堂などというものは、世間にそう多いとはいえない。旧友に会うたびに、私がまず自慢するのは、そうした環境の美しさである。

 「美しさに放心する」とはいっても、教壇の上でそうしばしば放心できるわけでもない。私がつくづくと窓の景色を楽しむのは、試験監督として生徒達の講堂に居る時である。用紙のすれる音や消しゴムをこする音や咳払いが聞こえる他は、講堂はシーンと静まりかえっている。その中を、私は足音を忍ばせながら巡視する。一巡終わるたびに窓に寄る。それが、雨の降る寒い冬の日などには、窓辺のスチームの暖かさに引き寄せられていつまでも同じ所に立っている。

 そんな時、私はさまざまな思いに耽るのである。目の先には、びしょ濡れになってふるえているプラタナスの裸木があり、細い道を隔てたむこうには、灰色にけむる海が見える。向かいの能美島は霧に塗りこめられて姿を見せない。そんな淡い灰色の景色の中に、停泊中の数隻の護衛艦の偉容をかすかに見出すとき、私は私なりに、海にあこがれて入隊してくる若い生徒達の男っぽいロマンティシズムを理解できるように思うのだ。アイロンのきいた白い清楚な作業衣を着て、生徒達は一心に答案を書いている。中には肩のあたりや脇のあたりが破れたりほころびたりしているのがある。針と糸とを持ってきて、今すぐにもつくろってやりたいなどと思ったりする。だが大抵の場合、思いは自分自身のことに移ってゆく。

 自衛隊における女性教官として、自分は一体この生徒達に何を与えているのだろうか?いやそもそも、この自分が若い生徒達に与えることのできる何かを持っているとでもいうのだろうか?そう考えてみるとしまいには、自分の存在価値までも疑わざるを得なくなってしまうのである。

 新任早々、カッターを漕ぐ生徒達の勇ましい姿にどぎもを抜かれた。精神偏重的に育ってきた自分が、こんな勇猛な生徒達の教官として立って行くことができるのだろうかと不安でならなかった。その後も、型通りの国語教師として毎日教壇に立っている自分は、生徒達が求めているものを確実に手渡すことができているのかどうかという不安から抜け出すことができないでいる。虚弱な母胎に宿る嬰児は、所詮虚弱児である。私は決してうぬぼれているわけではない。ただ、私も又、生徒を宿す母胎のごく一部分であることの誇りと責任を感じているのである。私は、誰のためによりも、まずわが生徒達のために自分の貧しさを呪う。

 3月2日に、宿願の少年術科学校開校式があり、わが生徒達は、すでに新しい少年術科学校生として歩みを進めている。松林のむこうには、今新校舎の落成が急がれている。新しい出発が始まろうとしているのだ。