17期バナー

無題                                                                          昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号より  
                 下総 14期 T・K
4年間というのは長いようで短かった。自分で勉強しようと思っていても、明日があると思っている間に、卒業の日が目の前だった。その時になって、生徒時代に一生懸命勉強していた者は自信に満ちた顔で、日々をのべつまくなし暮らしていたものは作り笑顔で、ロングサインで別れるのである。
部隊では、生徒の先輩諸氏が今では、何処へ行っても先頭になって勤務に励んでいる。先輩は時にはやさしく、時にはつらく、後輩のために自分を殺して、後輩に説教をする。それを自分のために説教してくれているのを分からない者は、課業後の行動が悪質化する。分かっている者は、毎日精を出し先輩に追いつこうとする。少術校の皆さんには、この後者に成って欲しいし、又前者であった者も、年を取る毎にそれに気付き、いつの日にかは同じになると思うが、現に同期で階級が違うのは生徒時代の行いではなく、如何に部隊に出てから精進したかという事に他ならない。
又、艦艇等希望の者は、今でこそ艦での体育日課は増えて来たものの、やはりまだまだ少ないと思う。少術校在校中に運動して身体づくりをして欲しい。
勤務地というものは、希望通には行かないもので、その良し悪しで教官等にあたるのはおかど違いであって、それは人事課が決めるので仕方がない。ただ一つ私の場合、3年時に潜水艦希望し、4年時には不希望に成っても、それは認められなかった。今思うに後からでも遅くない軽率な行動を取らなければ良かったと思っている。

江田島番外地 涙はやっぱりからかった。  昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号より
                    佐世保 14期  谷川憲一
 「桜々咲いてた、呉教は、俺にゃあんまり・・・・・・・・・」
昭和43年4月2日 まだ、ツボミだった桜の下で入隊式・・・・・・ よくもこんな ” ガンツキ ”の悪いのばかり全国から集めたものだ・・・・・・。中に一人二人は俺みたいに、まだ純情そのもののかわいらしい奴もいたことはいたが。
  「雨に雨にぬれてた 江田島に来てみりゃまわりは・・・・・・・」
5月15日(晴)   陽光うららかな日(というより冬のセーラー服では暑いくらいだった)一列縦隊で小用峠を越えて、第一術科学校の門についた。どんな所かと夢にも知らぬ彼等は、期待の第一歩を踏みだした。 ” 生徒教育部 ”の(かんばん)の下げてある所で、13,12,11期生の先輩にらんらんと刺すような眼光と拍手で迎えてもらった。年にして一つか二つしか違わないのに、先輩の顔の何とフケテ見えたことか。
(姓名申告スゴズラぞろい・・・・・) と 歌にもあるように、お国なまりのなんとうらめしかったことか・・・・・。胸のマークの色が変わるのを楽しみにとにかくがんばった・・・・。?!  色が変わったら生徒隊も変わっていたが・・・・・・・・。
  「二年三年たてば、俺達もいろんなことを・・・・・・・」二年三年たって我々も、先輩をみならったのか・・・・どうかは知らぬが・・・・・。とにかく真面目になった。「春が春が来たんだこの庭に、ダブルの背広もいいけれど・・・・・」
  昭和47年3月23日(晴) 「俺は、まだツボミだった桜の一枝を折って・・・・・」とかいうキザなことはしなかった。が、同期と別れにゃならぬ国立江田島少年鑑別所の出所式の日が来た。・・・・一列縦隊で、後輩、父兄、教官、校長と並んで見送る中を・・・・どうどうと胸を張って出るつもりが・・・・・・どうまちがえたか、半分を過ぎた頃からあついものがこみあげてきて、どうにもまらなかった。
  何故、涙がでたのか!! 送ってくれる後輩の涙がうれしくて・・・・・?  いや、それもあるだろうけど、もっと別の何かがあった。(それが何であるかは分からぬが)   「帽振レーッ!!」で 表桟橋から船に乗り移ってから、又どうしても涙が止まらなかった。俺ばかりでなく同期みんなそうであった。「ガンバレヨ!!」とどなり合いながら・・・・・・・。(涙の中に顔がある。涙にぬれた顔がある。涙の中にその中に小さくフルエル肩がある。にぎりしめてる手が見える)
もうすぐ、桜の花も満開だろうと思った。
  呉に下りて、早いうちに赴任する奴らを見送ってから、残った者で最後の乾杯をやった。この時ばかりは、酔いつぶれるまで飲みたかったが俺も夜行でいかなければならず、そうもいかなかった。この日は、みんな酒を涙で割って飲んでいたようだ。涙で割った酒もなかなかうまいものであった。(もうノムこともないだろうが)時には、すなおに涙も流し、又、腹の底から大声で笑う。これができる人間は幸せだと思う。いつまでも忘れないでいきたいものだ。
部隊に来ても今まで大勢の仲間が、ギャーギャー言っていていたところにいたのでちょっと気が抜けたみたいで淋しかった。夜遅くまでトランプやってさわぐ奴もいないし・・・・・・。とにかく、いろいろあったけど四年間努めただけでも、りっぱなもんであると、俺は自己満足している。
  こんど会ったらテツ夜で飲んでみようじゃないか。佐世保にきたら声をかけてくれ。みやげは何もいらんから。

江田島を巣立って                                  昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号より
                            館山 14期  萩原邦明
江田島生活の思い出と思い、いざペンを手にしてみたが、あんなことも、こんなこともあったっけなどと、頭の中にばかりあって、全くペンが進まぬままに、何気なしに本棚のアルバムをひろげ栗々頭の当時の自分達、格好良く気取ったつもりのセーラー服、実にみにくい顔つきで必死になって漕いでいる、短艇競技の写真、こんなのを一人でにやけながら、アルバムをめくっているとふと、懐かしく思うと同時に、良かったなあと思わずにはいられない。「何が良かったの。」と尋ねられても、こういうことがということは今の私には、応答しかねるが、しかし今にきっと、こういうことだと断言できる時が来ると私は思っており、またそうならしめて行きたい。
  こうした思い出に満ちあふれた、四年間の生活を終え、江田島生活とは一転した新たなる部隊生活に移り、今の私の心境らしきものを思うがままに述べてみたい。思えば私達は、多情多感なる極めて敏感なる年代を(まだ終わったわけではないが)隊内生活で送り、一般同年の者とは違った生活をしてきたことは事実である。しかしながら、はたしてあの四年間が私の人生にとって良かったか悪かったかわかる余地もないけれども、またそう思い考える前に、今後その過去を良くしてゆくも悪くして行くも自分次第。いかにしてそれを自分自身を向上させる基として役だたせていくかが必要なことではないかと思っている。
  私達は、あの江田島の四年間に三等海曹としての素養のみならず、良人間的あらゆる事を学んできた。しかしながら、若輩未熟な私には、すべての面で諸先輩方に比すれば、指一本にも及ばないに違いない。常々謙虚という言葉を耳にしてきたけれども、今の私には、この二文字が一番適切であると思っている。(ここで、私の言っている謙虚というのは飽くまでも積極性における謙虚ということである。)空手修行の奥義としてよく ”守破離” という言葉が言われるけれども、言うまでもなく、守り、破り、離れるということでこうした気構えで努力しなさいという意味を述べているのであろうと思うけれども、私は武道に限らず、私達が生活していくうえにおいても十二分に当てはまるべき言葉であると思っている。つまり、部隊で一番若くまた新しい私には先に述べた ”謙虚” イコール ”守” の段階であるべきとまではいかなくてもそうならざるをえないのかもしれない。そしてすべてのあらゆることを吸収し自分のものとし、フルに使いこなせるよう一日でも早くしていくよう心掛けてゆかねばならないと思っている。私に限らず私達は、生徒時代からいやその前から現在を、毎日を大切に精一杯過ごすことを言われ、誰しもがそう努力して来ていると思う。しかし、今までに何日となく過ごしてきているけれども、はたして何日、自分で「今日はやった。」と満足感を覚えた日があっただろうか。そう考えてみてもしあったにせよ、ほんの数えるにたらないと思う。(私がそうであるから多分に皆もと推察しているのかもしれない。)勿論こうした満足感が少ないからこそ、毎日が楽しく生きがいというものがうまれてくるのであろうけれども。今年の初めであったか、グァム島のジャングルで二十数年間もの孤独と戦いながら、生き長らえ帰国された横井さんを記憶しているが、彼が帰国した際にある人が「辛く淋しかったでしょう」という言葉に対し、彼は、生きることに必死で辛いことも淋しいことも感じなかった、いや感じる余地がなかったと答えたそうである。そこで私達が、彼から学び取らなければならないのはこれではないだろうか。孤独に対する忍耐か、天皇に対する忠実心もよかろう、しかし彼のあのボイスがそれ以上にとおといものがあるのではないでしょうか。精一杯生きる。実に難しいことである。しかし彼はこの難しさをなし遂げた生きた見本なのである。私も、いや私達もこうした心掛で「今日もやった」と反省できる毎日をつくっていきたいものである。
  まとまりつかぬことを述べてしまったけれども、とにかくこうした生活を過ごしていくうえに於いて、その前途には幾多の難道があるのは、目に見えてわかっている。そこで、そこを通り過ぎるだけの体力、勇気、そして自身を今の内に付けて、その難道を胸を張って正々堂々とつき進んでゆくことのできるように鍛えぬいて行きたい。

   

少年術科学校卒業後の雑感            昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号より
                   呉 14期  安東昌則

月日の経つ早さをこれほど感じたことは今までになかったであろう、もう少術校卒業式の日から四ヶ月も過ぎてしまう。私は、生徒生活での楽しさ、苦しさはあの卒業式の涙で区切りをつけたはずであった。しかし、今でもあのスパイクでけずり取られた青いグランドの上に立っている様な気持である。未練であろうか。
  今、私は若い三等海曹という肩書きの重さに、ややもするとくじけてしまいそうである。そうした時、江田島という杖にささえられ、ようやく立ちなおる。江田島での生徒生活四年間は、それがなんであったかはわからぬが、ただ「やった」その一言であった。それが今1人となった時、大きな力となってくれる。やはり、生徒生活を思い出す事を未練と呼ぶべきではなかろう。あの生活と、あの活気の中での自分をいつまでも忘れてはならない。部隊での生活は、油断するとその流れに私の身も心も乗せてしまいそうである。その流れに触れるたび、新しい自分を見つけ、その自分に賭けて見ようという気持が薄らいでくる。しかし私はそれに負けてはならないのである。負ける事は、江田島での四年間を無としてしまう。私は、明日を信じて、若さという矢に乗り、一直線に進んでみたい。私は今こう思う。

旭川での迎春                    昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号わが家の正月より
                水川晃
      (北海道)
津軽海峡には冬の厳しさがあった。どんよりと重くのし掛かる雲が、ずっと向うまで続いていた。その下で色濃い海に白波が立ち、しぶきをとばしていた。そのしぶきが連絡船の船窓に点々と飛んで来た。函館に着いたのは昼ころ・・・夕方過ぎ旭川に着いた。プラットホームに降り立つとすぐジャンパーのチャックをしっかり上まで留めた。吐く息が真っ白に変わった。乗車口の向うにはすっかり雪化粧した旭川の街が見えた。ちょうどクリスマスディであったので、街中がより取り見取の照明を思い思いに輝かせていた。そしてその光が白い雪をなおいっそうきらびやかにし、美しいイルミネーションをつくりだしていた。その中でジングルベルが流れ、それに酔ったように人々は無神経にたむろしていた。
  寒さで雪面がしばれていた。そのため歩くとキュッキュッと音がする。その足音がおのずと歩調を取っていた。制服を着ると、もう本能的に振舞いがきまってくるのである。そんなことを考えながら家路を急いだ。雪かきの行き届いていない玄関の前に立ち、雪かきでもしてやるかと思っていたら、今時誰だろうといったさえない顔つきで母が戸を重そうに開けた。母はびっくりして喜んだ。
  「晃が帰って来た。」とまるで子供のようにはしゃぎ回った。その姿に安心した。丁ねいに自分の靴を皆の靴と共にそろえて茶の間に上がった。柔らかなソファーに父と弟が腰掛けていた。禿上がった父の頭と、長髪族の端くれのような弟の頭とがやけに対称的であった。七つボタンの制服を脱ぎはじめたときストーブの向うの鏡にちょっと疲れたような自分が映っていた。数十時間も汽車に揺られれば無理もなかった。その日は、よく眠った。
  大晦日の朝はかなり冷え込んでいた。窓ガラスはしばれてしまい外が一向に見えないのである。いつもならラッパの音一つで飛び起きるのだが、なかなかそうはいかないのである。かなり苦心してベットから抜け出して廊下に出た。するとよいにおいが漂っていた。母が正月料理の最後の仕上げに精をだしているのである。ちょうど空腹だったので台所に顔を出した。冷蔵庫の上に長方形に切られた白い餅が二つ三つあったので、ちゃわんにしょう油と味の素を入れ、そして餅を入れて湯をかけ即席のぞうにをつくって食べた。そのぞうにを口にしながらソファーの上の神棚に鏡餅とみかんがおそなえしてあるのを見つけた。あまりにも年期がはいっていて、黒くにがみをおびていてその中ほどの有無がわからないほどの古い神棚である。それが真白い餅と黄色いみかんを顕著に浮かばせて見せていた。
  例年のごとく紅白歌合戦が幕を閉じた。すると母が丸い盆にもりそばを乗せて来た。ようするに年越しそばである。年越しそばをいつ食べるのかそれは定まっていないのだが、我家では紅白歌合戦が終わってから食べることが習慣になったようだ。長いそばを無事食べ終って、初詣に行く準備にかかった。きちんと筋の入った制服を着こむ自分が整然と鏡に映った。私はひとりで家を出た。外はうっすらとガスがかかっていた。キュッキュッと足音がうなずいた。神社から旭川の街並みが一同に見渡せた。丘のちょうど真中あたりに来ていた月が明るく旭川を照らしていた。
  元旦の朝は、きれいに澄み渡った青空が新年の喜びを訴えるかのようにさえていた。玄関の前の松の木が雪におおわれていた。その下からわずかに、くすんだ緑の松葉が姿を表わしていた。それが新鮮な緑の葉にはえ替わるのはまだまだ先だなと思いながら食卓に向かった。きのうまで母が腕を奮ってつくっていた正月料理が、よそおいも新たに卓の上に並べられていた。鳥肉、さといも、ちくわ、みつば等ふんだんに入れられたぞうには、実にうまかった。あついぞうにを食べている父の目がねがうっすらとくもっていた。なますは私の好物で、その甘すっぱさはなんとも言えないのである。それをとろけるようなおしること一緒に食べると、また格別なのである。
  冬には珍しく食卓に日がさしていた。その日ざしは、ちょうど母の背中あたりにあたっていた、家族四人の団らんが、この年の幸せを意味するかのように思われた。

正月慕情                             昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号わが家の正月より
                   今田俊介
       (関西・横浜) 
I could not possidle think of a christmas and a new year without snow.
遠く離れた北国から、冷たい風にのって届いた便りの中で、あの人はこんな風に語りかけてきた。
  私が、「今年ももう終わり、クリスマス、そして正月とやってくるんだけれども、今年も又雪にうもれて、クリスマスや正月を迎える事はできないでしょうね。」と書いた返事なんだ。雪のない正月なんて、とあの人は言うのであるが、その気持ち少し理解できないところがあるのも、やむをえない事だろう。
  生まれた地は、西の都京都。今は懐かしい京都の正月の事を思い起こしてみると・・・・・・。
  かなり大きな旧家であった。祖父が医者であった事も手伝い、非常に来客がおおかった。その大変来客が多かったという印象と平行して今も脳裏にしっかりと焼きついて離れないのに桂離宮の思い出がある。初詣の代わりに家族で、うっすらと雪の降り積もる中を歩いたのである。幼い子供心にもきれいだなという思いが広がったのを今も忘れることはない。今こうして考えてみると、あの時の美しさが、美という物の観念の基礎をなしているのである。
  なぜかあの初詣の印象が強すぎて、正月の遊び、たこ上げやすごろくなどの思い出は皆無なのである。
  京都の正月の思い出というものは、本当に幼い時代のものであったが、現在までの大半をすごした大阪の正月の思い出というものはやはり強くて大きなものをうつし出している。
  小学生の頃、遠足を明日に控え、窓の外には「てるてるぼうず」などというあやしげなものをふらさげ、一晩中興奮で眠れない。”そんな覚えはないですか”十余年間大阪で過ごした私の、正月っていう事の思い出を一口で表わすと、こんな表現になる。
  この地でも、たこ上げ、すごろくなどは経験できなかったけれど、素晴らしいほどの人ごみの中で、苦しい思いをする事だけは味わえた。あの恐ろしい人のうずにおし流されやっと目的の所にたどりついても見えるのは目の前に大きく広がる賽銭箱の白さだけ、何ともいえない気持を新年早々感じた事は忘れる事ができない。長い長い大阪での正月で記憶にあるのはこんな事だけ。
  生徒生活に入って二度の正月を迎えたのであるが、それに伴い我が家の生活の場も横浜に移り変わり、横浜の地において二度の正月を迎えたのである。
  異国の街横浜は師走の風がふきぬけても、去り行く年という感じを私には与えてくれようとはしなかった。
  除夜の鐘が鳴り響き始める頃、毎年きまって汽笛が聞こえだしてくる。
  懐かしい故郷を遠く離れた外国船員が、心をこめて、自国へ聞こえとばかりに鳴り響かすその音は、新しい年を迎えた喜びと、懐かしい故郷の愛人を想う船員の心で、何か物悲しさを我々の心に伝え聞かせるのであった。
  昨年、今年と連続して初詣の人々の数が最高であった鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に、最も人出が多いであろうと思われる元旦の午後に出むいていったのである。たしかに恐るべき人の波であった。しかし今年はなぜかその人出も気にならず又苦にもならなかったのはいかなるわけであろうか・・・・・。
  二日東京まで出かけてみた。なんと澄みきった青空であろう。私はあの懐かしい江田島の空を思い出さずにはいられなかった。暮れのせわしない人々をかかえこんだ首都とは大違いであった。人々の歩みもゆるやかで、空は晴れ渡り、何かすがすがしさを感じた。今でも街頭で売られていた子うさぎの眼にうつっていた青空を忘れる事はできない。 

わが家の正月                   昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号わが家の正月より 
                            番上隆幸       (福井)
  我が家の正月という題ではあるが、別に特別風習というものがあるわけでもないが、北陸地方の風景のようなものを二、三上げてみましょう。私の家は、福井県の北の方にあり、九頭竜川が、日本海の荒波にそそぐ漁港のある町です。正月の料理もやはり、漁港に関係があり、福井名物の越前ガニです。カニにもいろいろな種類があって、長い間、そこで、住んでいても、どれがどれかさっぱりです。
  私の家の近くには魚屋さんがあり、そこで取り立ての生きたカニを茹でます。そこの前を通った時の臭いはやはり、こういう所でしか味わうことのできないものです。お正月をこちらで迎える人達は、その風景をカメラにおさめたりしています。茹でたばかりの、カニのおいしいことおいしいこと。こういうカニを食べると、口がぜいたくになってしまうのか、冷凍のカニはあまり食べる気がしません。カニは足がおいしいと思うかも知れませんが、本当にカニの好きな人は脳ミソの方がおいしいといって食べます。
  私達の地方のお正月について、やはり関係があるのは、雪だと思います。北陸地方は、豪雪地方のように思われるかも知れませんが、私の家のあたりは海岸地方なのであまり雪が積もるということはありません。しかし、少なくても五十センチぐらいは積もるように思います。今年などは天気が悪く、一日、二日、三日と雨が降り四日には雪になりました。
  ここ二、三年お正月に雪が降らなかったのでなんとなくうれしいような気もしましたが、やはり、家の外に出るのがおっくうになってしまい降らなければいいのにと思っていました。幼い頃お正月に雪が積もったら、家の近くの友達と家の庭にかまくらを作ってもらいそのなかでおもちを焼いたりしたことを思い出しますが、雪が少なくなってしまった今では、そんな風景も見られなくなり、少し淋しいような気もします。
  私の家では、初詣にいくところというと、千葉県に成田山という寺がありますが、福井にはその別院があり、私達はそこに初詣に行きます。最近は寺も新しい建材で作られているので、昔のように寺の重みというようなものがあまり感じられなくなりました。初詣というものはやはり新しい年の始めというのでたく山の人が来ます。隣で手を合わせて祈っている人が、何をお祈りしているのかなあと好奇心が起こってきます。これはまだ私が幼いからでしょうか。
  私は毎年初詣に行きますが、夜中まで起きていても、一月一日は眠くならないのが不思議で、どうして眠くならないのか時々聞くことがあります。やっぱり誰も考えることは同じようで、新しい年の始めだから、その最初の日に早く眠ってしまうのがもったいないっという気持ちがあるからでしょうか。
  そんなことを考えながら、初詣に行きましたが、やはり起きているのにも限度が来たのか眠い目をこすりながら、今年は初日の出を見るのは、困難な状態になってきたと自覚し、家に帰って元日第一日目の目覚めを迎えることにしました。

卒業式  写真                         昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                 作者不詳
  海上幕僚長以下、各級指揮官、来賓を迎えて、父兄、在校生参列のもとに先輩の卒業式が実施された。
  呉地区総監の「三等海曹に昇任させる」の辞令伝達の胸中やいかに?四年間の苦楽が脳裏をかすめ、さぞかし感慨深いことであろう。
  参列された父兄の誇らしげな顔を見ていると、私達も父母にこの感慨を味わせてやるぞと覚悟を新たにする。
  卒業式最後の行事である見送り、一列縦隊で行進する新三等海曹、前を通りすぎる先輩のうれしそうな顔々々・・・・・。
  短艇による海上の見送りも同様、単縱陣の短艇の横を先輩を乗せた駆船艇が通りすぎてゆく。短艇から湧き上がる歓声、それに応える先輩の声。艇から乗り出した先輩の顔に、あのこわかった先輩の顔に『涙』がー。オメデトウセンパイ!私達も頑張って後に続きます。

修業旅行  写真1           昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
あと十数日で同期と別れ、三曹として部隊に配置される。振り返ってみると長いようで、短い四年間であった。同期とケンカもし、外出止めになったこともあった。苦しかった弥山登山、楽しかった宮島での幕営、緊張した中央観閲式、すべての出来事が走馬燈のように胸を駆けめぐる。それらは青春のエネルギーを昇華さすに足るものであった。苦楽を共にした同期との修業旅行は楽しいものである。四年間で発見できなかった同期のくせを、この旅行で見付けることもある。大いに羽根をのばし、しばしの感慨にひたる。

防火・防水実習 写真        昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                 作者不詳
  学校の北西にある大原応急実習場において、一日がかりで防火、防水の実習が行われた。
  防火訓練は屋外の円タンクに油を注ぎ点火して、それを消火する訳であるが猛烈な火勢と水が混じり、息をするのも苦しいほどである。これが終わり次第、屋内の消火を実施する。コンクリート造りの建物の中に点火し一定温度に上がったところで消火開始。二つの入り口から突入し消火を実施するが、どちらか片方がオジケズイテ逃げ出すと火勢が上がり、他の一方が危険におちいる。多少程度のヤケドをした者が出たが教官の助けもあって、どうにか無事に終了、午後は防水訓練である。
  屋外に造られた箱部屋の中に入って高圧をかけて流れ込む水を止める訓練であるが、それぞれ大きさの違う破孔に木栓を打ち込んだり、毛布につめたりして浸水を止め切った時には冷たい水が胸の高さになっていた。
  夢中で作業を実施していたので全然気がつかなかったが、今までにこれ程真剣に取り組んだ実習があったであろうか。

カッター訓練   写真          昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                  作者不詳
  海上自衛隊に入隊した者が一番苦しい思いをするのが、カッター訓練である。この訓練は十二名が一体となって、それぞれ四メートル程のオールで九メーターの艇を漕ぐのである。人がやっているのを見ると楽しそうに見えるが、実際にやってみると誠にきついものである。
  訓練当初はオールを持つ手にマメができ、木の椅子にあたる尻の皮がむけて泣きたい思いである。訓練も回数が増すと手にタコが出来、尻の皮も厚くなり、汐やけした顔と合わせてたくましい海の男に成長する。
  班長の号令にあわせて、自己の限界まで体力気力を費やして漕ぐ。「カイあげ!」「カイたて!」の号令にホッと一息。年に二回、短距離競技と遠曹競技が実施されるが、この競技にかける教官、生徒の熱意はすさまじきものがある。各艇強敵揃いでありクリュー共優勝目指して必死の訓練をしている。 

厳冬訓練  写真                 昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より 
                  作者不詳
  言葉では表現できない程、江田島の冬は厳しい。海からの寒風は身を切られる程、冷たい。この寒さの中で早朝から行われるのが厳冬訓練である。
  まだ明けやらぬ江田内で、氷水のようなしぶきをかぶりながらのカッター訓練、しぶきのかかった身体を寒風がさし、手足は凍って麻痺し、泣きたい思いである。
  カッター訓練の無い日は校内約五キロメートルコースの駈足である。起伏に富んだこのコースを走り終える頃には、冷えてふるえていた身体も暖かくなり、びっしょりと汗ばんでいる。
  この訓練は体力の向上はもちろんのこと精神面にも大きく貢献している。自分自身の体力の限界を知り、負けじ魂を育成して強い精神力の持ち主となる。『良薬は口ににがし』

弥山登山競技 写真      昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
これは駈足による登山競技である。名勝”宮島”にある弥山で、体力、気力と根性を競うのである。競技が近づくと江田島の古鷹山や校内の階段を利用して、慣熟訓練が始まる。この訓練は本番より数倍苦しい。
  競技当日は舟艇で宮島に進出し、海岸から頂上までの不規則な階段を、とんだり、はったりしながら登るわけである。
  最初は、猛烈な勢いで駆け登るが、この勢いも中腹までが限度である。残りの半分は気力と根性の勝負で生徒魂の発揮のしどころとなる。やっとの思いで頂上にたどりつく、さしものモサ連も倒れる寸前、這い、あえぎながら最後の力をふりしぼって登ってくる者は半数以上である。
  頂上にたどりついたときの気分は何に例えよう。すばらしいものである。上衣まで汗にひたり、目にしみる汗も、なぜか心地よい。勝負を度外視した満足感にうっとりする一瞬である。

中央観閲式 写真         昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
十一月一日、自衛隊記念日、この日国立競技場前にて中央観閲式が内閣総理大臣、防衛庁長官等の御臨席を得て盛大に行われた。と同時に上空では観閲飛行も行われた。我々海上自衛隊はニケ中隊を編成して観客の声援に応え、堂々と海の男の強さ、スマートさを国民に披露した。それに至るまでには隊員の並々ならぬ苦労があった。
  江田島に居る頃から、毎日別課はライフル銃をかついで行進訓練、そして上京の前日には部長の観閲を受けた。最良の状態で横須賀教育隊に一週間近くお世話になる。そこで操縦学生や練習員と一緒になり中隊を編成、同時に受閲部隊も編成した。
  ここでは朝の課業始めから夕の課業止めまで一日中行進訓練、時には横須賀地方総監に激励され黙々と歩き続けた。中でも受閲部隊に参加するものは休む間もなく、皆一心同体となるまで続けられた。
  行進部隊においても、しっかり皆の気持ちが一つになり、観客にいかにスマートに見せるかを念頭におき訓練を続けた。銃を武器庫に返納するときはくたくたであった。
  待望の十一月一日、早朝横須賀教育隊を出発、式場に到着して間もなく受閲部隊は式典が始まる一時間も前から式場に整列、見渡す限り回りは観客のうず、一歩も動かぬ、そして揺るがぬ。自衛隊の強さを一面に見ることができよう。間もなく首相到着、国旗掲揚、そして首相の巡閲を受ける。この時は皆緊張し、首相を海の男ここにあるぞと強くにらみつけた。さて、巡閲が終わり観閲行進に移る。
  我が部隊は「軍艦マーチ」に歩調を合わせ力強く行進、海上自衛隊への声援は一潮高く、我々も満足感にひたり堂々と行進、無事観閲式を終えた。やっと重責を果たしたという安心感が強く、何とも言えないよい気持ちだった。
  中央観閲式における我々は、海上自衛隊の代表としてその任務を無事果たし、また我々にとってもよき教訓となった。

遠泳     写真            昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                           作者不詳
七月初めから毎日のように続けられた水泳訓練、今日はこの成果を発揮する水泳のしめくくりともなる遠泳である。
  午前八時三十分、術校スベリから入水、約五マイル余の距離に対する挑戦の開始である。
  昼食、氷砂糖、お茶は各通船に積み込んだ。各自は幕営終了時からこの日に備えてスタミナの蓄積と、コンディションの調整に努めてきた。水温二十八度五分、空は薄曇り、絶好の遠泳びよりである。九時半過ぎ第一ポイント通過、隊列は整然と快調の出足である。波もなく泳ぐ水面は鏡の如き状態である。
  スピードに乗って予定時間より早く昼食の海面に到着。一同むさぼる如く、手作りの「大にぎりめし」を食す。湯茶の売れ行きも好調、三十分ほどして残りの距離に再び挑戦する。午後一時、先頭の我班が出発点に帰着、迎える一年生の中を通りアメ湯に殺到・・・・遠泳を終える。

幕営訓練   写真               昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                作者不詳
名勝「安芸の宮島」青海苔海岸におりて、約五日間にわたる幕営訓練が実施された。
  午前午後の大半を水泳訓練に費やす厳しい日課であったが、夜間は映画、キャンプ・ファイヤー、演芸会等が実施され、最後の幕営が楽しい思い出として末永く各自の胸に、残ることと思う。分隊教官の好意により、訓練時間の一部で「スイカ割り」も出来たし、滞泳では全員が約七KMを完泳した。ひやけした班員の顔は「海の男」そのものである。

原村野外訓練 写真    昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
広島県賀茂郡八本松町原村、ここが生徒の野外戦闘訓練の地である。陸上自衛隊の演習地でもあるこの原村で、約五日間ほど、昼夜にわたり厳しい陸上戦闘訓練が実施される。
  ベトコン並に顔を汚し、夜影に身をかくし、お互いにはげしい攻防戦を展開し、敵の本陣に発煙筒を投入すべく必死に努力する。相手の合言葉を早く聞きだそうと、斥候の動きも活発である。
  最終日に行われる中隊攻防戦においては、偽爆弾、偽砲煙の炸裂する中で、日頃の座学のウサを晴らすかのように、敵陣に駆け込む。訓練するときの苦しさよりも、逆に楽しささえ感ずるから不思議である。
  学校生活と異なり、野外で地を這い、山を登り、谷を越え、くたくたに疲れ、営舎に帰って食べる食事は、また格別である。現在は二、三年生しか参加していないが、全校生徒で行えば、なお有意義な訓練となるだろう。

球技大会  写真         昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
ラグビー、サッカー、バレー、ハンドボールは、海上自衛隊で大いに奨励されている球技である。もちろん少術校にクラブがある。この四種目について、バレー、ハンドボールは春に、ラグビー、サッカーは秋に、校内各班対抗試合が催される。
  各班が大体同じような力量、レベルになるように、クラブ加入者の人数制限が付いたりする。上級生だからといって、ウカウカできない。後輩のネバリに合い、苦汁をのまされることもある。全面芝生でのラグビー、サッカー大会はすばらしい。ここでも熱戦がくりひろげられる。トライ!ゴール!と夕闇迫るころまで、ファイトがつづく。

入校式  写真                    昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳
桜の花が咲き始める頃、全国から海の男たらんと決めた若人達が江田島に集まってくる。海を二、三度しか見たことのない者、泳げない者、そして農村、漁村、都市と今まで育ってきた環境も違うし、東北、関東、関西、九州と言葉も異なる。
  初めて親元を離れて、一人立ちするのだ。親に連れられて不安そうに校門を入ってくる。着校後の身体検査を終えると、金色に輝く七つボタンとベットと机が待っている。着校後二日すると、いよいよ海上自衛隊生徒に任命される入校式がある。七つボタンに身をつつみ、白亜の大講堂で厳粛に行われる。「海上自衛隊は諸君たちを欲している」「生徒としての自覚を持て!」と訓話を受ける。入校式が終わると親たちは帰っていく。しかし、海上自衛隊生徒たる彼等には、さびしさは残らない。「やるぞ」という気迫と、それにもましてつよい同期の絆が結ばれていく。

江田島雑感               昭和47年11月15日発行 海上自衛隊生徒同窓会『江田島』第2号 行事寸描・喜怒哀楽より
                             作者不詳   
”江田島”ここは私達生徒の第二の郷里である。ここにある術科学校は華奢な美でなく、どっしりとした風格があり、一瞬のまばたきも許さぬ、身に迫る雄大なうつくしさだ。
  江田島は創立以来七十余年の伝統を持ち、数々の戦役を見つめ、日本の辛苦を二次大戦の参禍に至るまで、変わらぬ姿で見つめてきた。また世界に聞こえた「海軍魂」江田島精神は今でもコンコンと脈打っている。”古鷹山”これは江田島の象徴であり、私達の象徴でもある。休日の外出時、頂上まで駆け登り「苦しみ」、「悩み」等の憂晴らしができる憩いの場でもある。”教育参考館”海軍の遺品が揃い、海軍魂を感ずる場所である。
  江田島の夕焼けは美しく夜空に星が輝き、月は江田島湾の海面静かに照らす。父母や友人にもこの美しさを見せてやりたい。

団体生活について         昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号主張より 
               村山清広 
少術校の朝の五分間講話で、先月七月、「チームワーク」という題で数人が講話した。その数人の中に、「チームワークを保つためには個人的犠牲を払う必要がある。」という講話をしたのを聞いて、ちょっと疑問を感じた。確かにチームに貢献する為にはある程度の犠牲を払わねばならないと思う。しかし、どの程度の犠牲までなら個人で負わなければならないかである。程度と一口に言ってもその場の立場、条件によっても変わるだろう。でもその場で、最大の犠牲を払っても自分で満足のいくものであれば、何も疑問はないのである。が、団体のため、チームのためと無理に押しつけられている犠牲も少なくないのではないかと思う。例えば、ある競技の選抜をする場合でもよくこういう事がおこる。班のためとか、チームのためという都合のいい言葉にあやつられて、自分の不得手とする種目に勝手に回される時がしばしばある。自分が不得手とする種目でも、”自分なりに頑張ろう” とたやすくひき受けてくれるならいいが、十人中八人までが拒否するはずである。表面はいやな顔を装っても内面は気がある。こんな例も考えられる。が、いやだと表面に出す人はだいたいが本心だと思う。にもかかわらず選抜されて競技に臨み、もし天の恵みがなく入賞はおろかチームの団結を乱すような結果に終わっては、回りの皆から非難をあびるのは決まりきった話である。”やっぱりあいつは”とか”あいつは出さん方が良かった”とか前の姿勢とは逆の態度をとられる。非難を浴びた本人にとっては、自分なりに全力を尽くして競ったものでも、犠牲を払ったうえに非難を浴びる。これなんかは、個人がいやがうえにもはらわなければならない最大の犠牲であると思う。このような個人に対する一方的な犠牲を取り除く為には、チームにこだわった全体の意見を尊重する前に、何分の一かの個人の意見を尊重し、全体のバランスを取らねばならない。しかし反面、尊重される個人の態度もあくまで全体のためにチームの一員になって発言せねばならない。この辺に食い違いがおこる微妙な所である。こんな食い違いを取り除きチームとしての和を保つためには、一人一人が”あいつなら絶対に信用してくれる”という自分を絶対的に信頼してくれる人を互いにもつことだと思う。すると自然にそこに連帯感という、団体生活の上では欠かす事のできない結びつきができるはずである。個人同志の尊重が連帯となってチームに貢献するようになれば、選ぶほうも選ばれるほうも互いに責任を感じ、そこに、団体生活の中で最も重要とされるチームワークが保たれるのではないかと思う。

勇気                      昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』
  大谷等
私達は、よくテレビ、新聞等で公害についての記事を見たり聞いたりします。例えば、食品に関する公害を例に出すと、BHCとかカドミウムとかPCBとか、とにかくわけの解らないような言葉が次々に耳に入ってきます。それでは一体何を食ったら安全なのか。あらゆる伝達機関から解るように、そのうち食べるものはおろか、水道の水さえ飲めなくなってしまいそうです。有害な食品等は、なんとしても排除しなければなりませんが、こうした目に見えた問題には関心が集中して私達の身近な問題が忘れられていないだろうかーという疑問を感じます。
夏は下痢や食中毒の事をよく聞きます。その原因は何であろうか、と考えると、食中毒をおこす細菌が、食器類や食品に附着していないだろうか。ゴキブリやネズミがそこらをチョロついていないだろうか、屋台のラーメン屋の容器は、汲みっぱなしのバケツの水にちょっとつけるだけ、などがあげられます。PCB汚染には強い関心を示してもパン屋が、お金を受けとったその手で、パンを手づかみにして包装しているのをみて抗議する「勇気」のある人がどのくらいいるでしょうか。そのちょっとした事が病気を防ぐ手段になるといっても過言ではないと思います。
PCBだけが公害ではありません。大気汚染だけが私達の健康をむしばむのではありません。公害というのは、そのちょっとした事の集まりのようなものだと私は思います。
ですから私達の周りにある問題を、もう一度考えなおす必要がありはしないでしょうか。一人一人が「勇気」をもってほしいと思います。

友情                     昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号主張より
                        小川直基
  友情ということは、若い時代に最も関係が深いと思う。
  年をとってから友だちができることはあるけれど、なんといっても若い青春時代ほど、自然に友情が生まれることはないと思う。
  その理由は、私は幼いころから母のそばで、あまえて育ってきた。そして段々成長してゆくにつれて親から離れ、孤独に耐えて生きていける人間として、成長してきたが、やはりそこに寂しさ、心もとなさを感じた。一人まえになって、自由になれる喜びがあると同時に、寂しさもあった。また、これからきびしい社会生活をしていかねばならぬと言う自覚もあるのだ。こういう時は、早くいえば子供とおとなの中間期で、無意識的にも、友だちというものを切実に求める気持ちがわいてくるのではないかと思う。
  今いったようなわたしたちの第一歩の社会生活が始まるのは、ふつう学校生活だと思う。それも、小学校や中学校のように、親の強い監視の元では、友情といってもそんなに深いしっかりしたものは生まれない。いわゆる仲よしといったほうが早い。家族とも離れていず、それに対する依頼心も強いから、生きるためにどうしても必要だとはだれもが感じていない。結局友情らしき友情が生まれるには、まず家庭の中なら外へ出なければわからないと私は思う。
  私の経験でも、そのとおりだと思う。小学校や中学校のころ仲よしだった友人の顔を時々思い出してなつかしく、楽しくなることがある。しかし、その後自衛隊に入ってからの友人は、なんともいえない生がいや新しい魅力を感じた。だから、たとえ遠く離れていても、お互いの信頼や愛情を忘れずにいられるのだ。
  ちょうど今の時期が、友情を深めるのにいちばん適切な時期だと思う。だれも共通の問題や悩みや喜びをもっているし、人生の事を自分の力で考えてみようとする時期でもある。そういうことを始めて語りうる相手を見いだしたり、ともに体験したりしたことは、生涯忘れることではないのではないかと思う。
  また今の時期は、人間として社会のさまざまのことを批判し、理解する能力がすでにできあがっているが、まだ完全には社会のさまざまなことに組み入れられていない。だから今、みんなは純真なのです。実際に社会の中に入ってしまうと、人間はしっかりしてくるが、反面にどんなに純真な人でも多少の利害にさとくなり、だんだんとつきあいにくくなる。だからなんといっても今の時期が人間としていちばん利己心が強くない時期だから、純粋な友情をつくれるわけである。青春期のような純粋な人間のつきあいは、二度とチャンスがないので、たいせつにしていかなければならないと思う。

昭和ひとけた   昭和48年3月11日発行広島県立広島国泰寺高等学校通信課程『つどい』52号主張より
             米光正俊
「人に歴史あり。されど、それは平和によってつづられるものに非ず。苦難と忍耐、闘争と勝利によって書かれるものなり。末尾は敗北、もしくは光栄の一語を持って終止符を打つ。」ある日記から
  反戦ムードの強い今の日本。非難の声の多い自衛隊に、私は入隊して一年になる。私は今十七才、父は四六才で昭和ひとけた生まれ。昭和ひとけたが私ぐらいのとき、戦争がはじまった、という。昭和ひとけた達は酒を飲みながらよく、「戦争中、勉強なんかしないで工場で働いた。」という。あきもせず、こりもせず、同じことを何度も話す。
  私は今まで、そのことを大したことではないと思っていた。むしろ幸せだと思っていた。でも、このごろ、それが大へんなことだとわかってきた。昭和ひとけたの青春は、戦争でメチャメチャにされたのだ。私は自衛隊にいるけど、本当の戦争を知らない。でも、青春が奪われてしまうということなら、わかるような気がする。おそろしいことだ。悲しいことだ。誰にいったい昭和ひとけたの青春を奪う権利があったんだろうか。誰にいったい昭和ひとけたの若い日々を、灰色に塗ってしまう権利があったんだろうか。
  時間は待ってくれない。若いころは二度ともどってこないのだ。なぜ昭和ひとけたが損をしなければいけないんだろうか。戦争でたくさんの若者が「国のために」という名目で死んでいった。
    国のためなんていうのはうそだ。
    国は若者をだまして殺したんだ。
  世界中のどこをさがしたって、あんな多くの若い命とひきかえにできるものなんかありはしない。あまりにみじめすぎる。かわいそうだ。「あの時は、ああするしかなかったんだろう。」と誰かがいっていた。「そんなことナンセンスだ。」ともうひとりがいった。私にはどちらが正しいかわからない。どちらもうなずけるし、どちらもうなずけない。時代がちがってきたのだ。今さらなんといっても、昭和ひとけたの青春はもどってこない。若い戦没者も生きかえりはしない。
  私は、勝手きままに青春をたのしんでいる。なにかがちがっているような気がする。原水爆のある世界、人間は、平和についてもっと積極的に考える必要があると思う。そして、青春についてもっと心をひらいてみる必要があると思う。
  私の青春は私だけのものではない。若いエネルギーは、私たちだけのものではない。昭和ひとけたの青春は、まだ終わったわけではない。むしろこれからだ。いままで奪われたものをとりかえすためにがんばってもらいたい。また私たちは、国民として、昭和ひとけたの子供として、何を彼らにしてやらなければならないかを、考えなければいけないと思う。

今、現在思っていること
                                                          昭和48年3月11日発行  広島県立広島国泰寺高等学校通信制課程『つどい』52号随想より
                        臼井幸一
アポロの成功で月の神秘性が失われ夢や詩がなくなったのは確かである。
  同時に人間疎外問題が登場し、アポロ計画さえなかったらアメリカ合衆国における貧困問題、人種問題もすべて解決されたのであろうといったような論議が盛んに行われていた。
  今日の社会悪はすべて物質文明、科学万能主義、合理主義、過度の経済繁栄などに原因しているということになってしまった。
  本当に科学とか物質文化つまり物が精神文化ー心をとらえているだろうか。
  ものの存在や進歩なくしての心だけの存在で真の人間の幸福が考えられるだろうか。
  これからのことももっと冷静にふりかえり、分析することなしに、ただ頭から物とは争闘するものだときめてしまうのはあまりにも観念的すぎやしないだろうか。
  現実には心と物との争いに起因するよりも心と心、あるいは思想と思想の争いや、いがみあいの原因となり、これが今日の世界を不幸にしているのではないだろうか。
  人間至上主義とか資本主義とかで、今日でもまだこの世界をこんな争いのうずの中に巻き込まなければならないほどの根本的な、重要な意味をもち続けていることに矛盾を感じないわけにはいかないだろうという、大きなとらわれから脱却できない姿をみせつけられているような気がしてならない。
  精神文明の中にもう少し現実に即した科学的な評価を許さなかったところに問題があるのではないだろうか。科学とか物質とかいうものは比較的その絶対的価値が多くの人にはっきり評価できるのに対して、思想とか精神方面では人間の主観が主役になりすぎて、その絶対性を与えようとするところにいろいろ無理が生ずるのではないだろうか。
  人間の問題、心や思想、魂の問題を科学的に考えることは古来冒とくと考えられタブーになってきた。徹底的に分析できるとは思わないが、ある程度はできるであろうし、またできるところまでやることが必要なことであろう。その時大切なことは考えや宗教、思想政治であろうそれを選ぶことは個人の自由であるべきで、特定のどれか一つでなければならないとしたら、それは基本的に正しいこととはいえないだろう。
  どんな理想的なことであってもそこに人間の選択の自由が許されないとしたらそれはもう理想と呼ぶにはふさわしくない。どんな良い理想であってもそれに起因し発生した行動が多くの人間に犠牲や迷惑をかけたり、不快な念を与えるとしたらそれはもはや善ではないだろう。
  短時間に完成する革命はそんな意味でどんな理想が生まれるとしても善ではあるまい。もし長い時間をかけ、それによって多くの人間の了解と納得を得て行われ、われわれの社会を本当に幸福にする革命が存在するとしたら、それは人類にとって大変望ましいものといえる。我々人間大衆というものは瞬間瞬間では決して懸命なものとはいえず、むしろ愚かであると思わねばならないが「その大衆を長い間だまし続けることはけっしてできるものでないことは過去の歴史が証明している。
  要するに時間をもってすれば大衆ぐらい件名で正しい判断をするものはないことをしらなければならない。
  時間をかけることが不可能で、物事を急きょ決定しなければならない場合には、何事であろうともう少し科学性を加味した合理的分析評価が正しく行われなければならないであろう。思想と思想の対立にそんな大きな意義を感じなくする努力は、これからの日本や世界の争いを除き、本当の人類の幸福を築く一つの方法であるまいか。

動物について      昭和48年3月11日発行  広島県立広島国泰寺高等学校通信制課程『つどい』52号随想より
                       伊藤たかし
まず最初に、自分の、動物の、飼育歴を語っておこう。
  まず最初は、小学三年の時、学校で飼ってあったウサギが、子どもをたくさん生んで、小屋が狭くなったので、そのうちの何匹かを、生徒にくれた。私も、もらうことになったので、その日は急いで家に帰り、りんご箱を捜し出して、暗くなるまでかかり、やっと、小さなうさぎの城ができ上がった。次の日学校へ行き、うさぎを分けてもらった。私のは、真黒いやつだった。
  家に帰った私は、さっそくえさを考えた。うさぎは、にんじんが好きだったな、と考えて、母にもらいに行った。すると母がめずらしいことをおしえてくれた。うさぎはちち草が好物ですよということだった。そこでちち草とはどんな草かよく聞いて、さっそく捜しに行った。
  それからは、朝いつもより30分早く起きて、うさぎの世話をする生活が始まった。やがて、大きくなり、私も喜んだのだが、あっさりと、竹で作った部分を食いちぎって逃げてしまった。そこで、うさぎとの生活は終わった。
  次は、犬であった。しかし、これは家族全体で飼ったので、飛ばして次に行こうと思う。
  次は、はとだった。最初はまだ、ほんの子どもで、えさも自分で食べることができなかった。そこで、口を開けて入れてやり胸が、えさでいっぱいになるのを見て、スポイドまたは口うつしで、水を飲ませてやった。この時も、早起きしてえさを与えた。学校に遅れそうな時も、忘れずにえさだけは与えた。
  だいぶ大きくなったある日、飛ばしてみようと、庭に連れ出して、上にほうり上げた。すると、突然、家の犬が飛び出してきて、はとに飛びついた。私はびっくりしてかけ寄った。さいわい、どこもけがはなかった。私は、犬をおこった。だが、その後の意外な事件で、犬は決してはとを、殺そうとしたのではないことがわかった。
  ある夜、はとは寝てるかな、と思って、のぞいたが、どこにもいなかった。そのころはもう飛べるようになったので、ドアは、開けておいた。だが、いままで外泊したことなど一度もなかったので、心配していたら、なんと、犬小屋の中で、犬に、抱かれて眠っていたのである。しかし、これには欠点があった。遠くに飛び回らないのである。家から百メートルと離れたことはなかった。弓を持っていた私は、どうせあたらないという考えで、はとを飛ばそうと、矢を飛ばした。そのうちの一発が、当たったのである。一度落ちたが、それでも、私のところまで飛んで来て、地面に落ちたのである。私はびっくりして、ひろい上げましたが、首の骨が折れていて、まもなく死にました。私は悲しみのあまり、ワンワン泣きだしてしまった。私は、うたれても私のところに飛んできたことがたいへんうれしくて、より一層悲しくなったのを覚えている。あれだけ可愛がったものが、消えて次の日からは、気抜けしてしまった。今までの思い出が頭をかけめぐった。
  いたずらもいろいろあったが、私を一心に引くものがあった。よその猫が、はとをねらっても、犬が守ってくれた。犬とはとの変な友情も見られた。
  動物を飼うことによっていろいろのことを学び得たと思う。動物は、人間にとって、遊び道具にすぎないかもしれないが、動物は、人間につくしてくれているのである。人間も、それに答えて、動物を可愛がるようにしたいとおもう。

   「旅」について 昭和48年3月11日発行  広島県立広島国泰寺高等学校通信制課程『つどい』52号随想より 
                      松本幸人
「DISCOER.JAPAN」−最近どんな小さな駅ででも見かける国鉄の旅行案内用ポスターにある決り文句である。日本各地の風光明媚な場所や有名なお祭りなどの写真のすみに必ずや目につくこの決り文句が、私はすごく好きだ。この決り文句によって私の小さいころからボンヤリとした空想的なものが、実に見事に表現されたからである。また、現在の日本人にとって妙に刺激的に心の中に入りこんだのではないかと自分勝手に推定したからである。しかし、この決り文句の方針に一つだけ気に入らない点がある。それは、先にも述べたように決り文句がついているポスターはどれもこれもかなり有名な所である、ということである。このことは、私の小さい頃からのボンヤリとした空想的なものから発したものであるし今なおその考え方が私の考え方の主流を成しているのである。
  では、小さい頃からの空想的なものから発し現在私が抱いている決り文句への考え方を述べてみよう。私は、物心ついた頃から野や山や川が大好きだ。よく野原に寝転がりわた雲を見つめ空想にふけって時の立つのを忘れたものである。ある時は一人で山の頂上まで登り、あまりのすがすがしさに耐えきれず大声で「バカヤロー」と叫んだこともあったのを覚えている。現在でもこのような思い出をすごく懐かしんでいるのである。おそらくいつになっても私はこのような過去を否定しないと思う。否!かえって肯定するはずである。さて決り文句の気に入らない点であるが、私が思う決り文句の定義は、4分のごく身近なところに、ぜんぜん有名じゃない所にほんの小さなことでもいい、他人がすばらしいと思わなくてもいいからとにかく、自分が満足する場所あるいは風物の発見であると思う。だから、それを発見するのに必ずや交通機関を利用しなくてもいいのである。むしろそれを利用しない方が良いと思う。
  先に述べたことにより私が「旅行」よりも「旅」に魅力を感じているということは必然的に解るはずである。しかし、「旅行」というものを否定するわけでははい。が、最近しきりに感じていることなので述べよう。
  「旅行」−今すごくはやっていることである。それも、できるだけ遠くに、できるだけ有名の所へと行きたがるのである。交通機関もすごく便利になり「旅行」はしやすくなったが、はたしてそうだろうか。江戸時代のことを考えてほしい。長い長い街道を小鳥のさえずりを聞きながら。まぶしい陽ざしを浴びながら、雨に会ったら木下で雨宿りと考えるだけで心がウキウキしてくるのである。否!現在の日本でそんなことができるか。こう思うのは当たり前のことである。しかし、江戸時代のころほどにはいたらなくても、ある程度までは可能であると思う。現に私は今年度の5月にこんな経験をした。午前10時頃私は、ある普通列車に乗っていた。さわやかな5月の風が車内に漂うと、たまらなく心がはずみ、急に汽車から降りて歩きたくなってしまい思うままに下車してしまった。そして、緑に囲まれた道路をいろいろな空想を描きながら5月の風によって次の駅まで運ばれた。今思うに、あの経験は決して予定なんかなくて発作的にやったことであると思う。あのときの私は「旅行中」であったのに急に「旅」をしたわけである。
  しかし、私は、決り文句のある一部だけに賛成できないのであって、国鉄の決り文句「DISCOER.JAPAN」というものがすごく好きだ。現代人になくなりつつある心の中の何かを取り戻してくれる国鉄の決り文句をみんなが認識したら、すごくいいと思う。諸君!もう一度「旅」について考えてみよう。
  なお、最後に断っておくが、これはあくまでも、私の雑感であるので、読んでいておかしいなどと思う箇所があるかと思うが、そこは自分なりに考えてほしい。

      コイ釣り     昭和48年3月11日発行  広島県立広島国泰寺高等学校通信制課程『つどい』52号随想より
                    馬峠義郎
自然の中の鮮烈、壮快な感動を求めて、私は、釣りに行った。その日は、おじさんと二人、朝は4時に起きて、まだ外は、暗いところを出かけた。朝から天候が悪いみたいだったけれど、昼までには非常に強い雨になった。雨になるとすぐ、私たちは物陰に隠れることができたので、雨に濡れずにおれた。その日に、私は、コイを一尾あげた。それにより、後にここによく来るようになってしまった。
  前に述べた釣り場は、江川のある比較的流れのゆるい、泥底の場所でコイのすまいには絶好な場所でした。江川というと、たったこの前の、記憶に生々しい、集中豪雨のあった地域を流れている川です。上流地域の三次、中流付近の川本は非常に心配されて、有名なことはいうまでもないことです。その他にもこの江川の氾濫による被害は数え切れないほどあります。その釣り場は、三江南線と江川が平行している所で、ちょうどそこは線路の下にあたります。そこも豪雨の被害のあったところで、レールの下の石が水にさらわれて、レールがぶらさがっていました。
  さて、コイ釣りは、どのように考えられているのだろうか。これは少々誇張しているようですが、「野ゴイ釣りこそ釣りの真髄!」という人もあります。このように、釣り人の友となる魚はいろいろあるが、ひとたび野ゴイ釣りのおもしろさを知れば、生涯忘れられないといわれます。川と湖沼にはコイの他にレンギョなどの大物もいますが、コイは、淡水魚の横綱です。野ゴイ釣りは豪快でしかも釣技にくふうが必要なのです。そこに泉のようにわきあがり、あふれる魅力があります。
  コイを愛し観賞し飼育する人たちは、コイを「国魚」と呼んでいます。コイが日本人の心に占める地位とか、コイの性格といったものをみごとにあらわしています。
  コイの養殖事業はさかんです。自然繁殖するものの他に、毎年、数千万匹の稚魚が全国の川と湖沼に放され、その稚魚か成長して子をふやしつづけています。他の釣魚は、少なくなるばかりなのに、コイは、いよいよ増えてゆくというのも、うれしいことです。
魚体の一部だけしかウロコのないドイツゴイ、紅、白、青、黄、茶、墨色などの入りまじったニシキゴイに対して、天然のままのものや養殖種でも黒っぽいマゴイ、体高の高いもの、低いものなど、いろいろな種類があります。
  天然のコイは暗い緑色がかった茶に、金色がまじった体色だが観賞のためには色彩を、食べるためには肉が多いようにと、長い年月かけて体色、体型が改善されてきた。その仕事は現在も続けられています。たいていの魚は、あまり長命ではないが、コイは人間と変わりないほど長生きすることがわかっています。数十年以上、百年近くも生きていた老大魚がつられていることから明らかです。
  ある釣り名人曰く、「わが半生の旅路は険しく、荒野にふみ迷ったその日、言葉なく語りかけてきたのは野ゴイであった。心楽しい、日々道連れとなったのも野ゴイであった。」とあるように、コイを友とし、コイをたくましく思い、非常に愛している人もある。
  岐阜、富山県など北陸方面では、マゴイにまじって、ニシキゴイが釣れるとか。大型ニシキゴイまで登場して野ゴイ釣りにますます楽しみを多くしているようです。私の釣りのホームグランドにもどこでもそれぞれに、独特の楽しさがあるものです。
  コイ釣りは、楽しくするものである。サオにかかる魚が大きく、引きが痛快なのはいうまでもないことです。釣り人のだれにたずねてみても、小さい弱いほうがおもしろい、と答える人はいないでしょう。しかし釣果にとらわれすぎると自然を見る眼がぼけてしまいます。釣れなくても、楽しい釣りができれば最高である。
  野ゴイはわが友、たくましく、けなげなその気風を愛す。