|  | 海上自衛隊第1術科学校全景。 幹部候補生学校、第1術科学校、江田島病院、教育参考館
 水交館、大講堂など、旧海軍時代より、海の男達のこよなき
 修練の場として、現在にいたる。
 中央の申し訳なさそうな簡素な桟橋は、海軍兵学校時代から
 現在の海上自衛隊まで一貫して学校の「表玄関」となっており
 卒業生は、この桟橋より「帽ふれ〜」で、全国各地の部隊に
 出発した。
 生徒館は、右端にある。
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      |  | 緑の松林に囲まれブラウン系色タイルをはめ込んだ3階建て の生徒館。
 中学を卒業し海上自衛隊生徒として採用された隊員が、水測、
 通信、電子整備の中堅海曹となるための勉強を4年間にわた
 り、きびしい訓練に明け暮れた。また、1971年当時、広島県立
 国泰寺高等学校の通信教育を受け、生徒教育終了までに高校
 の資格も取得した。現在は左側に同規模の増設がなされて
 いる。
 (屋上の物干場で、イケナイこともしたな〜。)
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      |  | 生徒17期3班 1971年4月 第17期生徒として入隊した同期は148名。それを3班に分けて
 基礎教育がなされた。分隊長上田2尉・分隊士須田3尉・班長
 浦田、白砂3曹。
 
 もちろん写真には写っていないが、隊舎の中には、青や黄色の
 ”鬼”達も大勢いた。(オソロシ〜)
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      |  | ♪♪ な〜なあつ ぼ〜たんは さくらに いか〜り ♪♪ (思わず、うたってしまったが・・・)
 1970年10月28日、この七ツボタンの制服が制定された。
 中学3年生当時募集事務所の方が持ってきたパンフレットも
 この制服だった。それからは毎日、毎日このパンフレットを見て
 は希望に胸を膨らませた。なんとしても入りたかった。なんとして
 もこの、七ツボタンを着たかった。
 「区切りをつける(卒業する)までは、どんなに厳しくても どんなに
 辛くても我慢しろ。」が、両親の言ったことであったが、「卒業したら
 戻ること」 を条件に 入隊を許してもらった。
 教官、諸先輩と日本国民の皆様には、大変ご迷惑をおかけしたが
 これからも 自分のできる範囲でお返ししていく。
 桜満開の隊舎の前で。
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      |  | 入校式(宣誓) 1971年4月5日 大正6年(1917年)建設された 神聖なる大講堂で行われた。
 御影石(花崗岩)造りで ホコリどころか ピカピカに磨き上げられ
 手入れの行き届いた 大講堂。入校式や卒業式など以外では
 入った記憶がない。
 大声で宣誓分を読む 江田生徒(熊本出身)
 
 自分は並んでいるだけだったが、緊張の連続であった。
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      |  | 歓迎会 1971年4月 先輩がやってくれる歓迎会は、道場で行われた。
 自分の出せる 最大の声で出身地、名前、趣味、特技などを言う。
 声が小さかったり 元気のない者は、「キコエンゾォー!」
 「モォー イッカァーイ!!」など 恐ろしい言葉がアチコチから浴び
 せられ何回もやらされた。いったい、何の歓迎だったのだろう?
 小さい写真でありながら、緊張感 ピリピリが伝わってくる。
 
 馬峠(島根出身)生徒(写真)は、1回でOKが出たっけ?
 
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      |  | 俸給日  1971年4月18日 生まれて始めての俸給日。初任給23,800円。
 俸給日になると、ハンコを持って貰いに行ったが、お金の確認を
 するだけですぐその横にいる班長に袋ごと渡し通帳に入れてもら
 った。上陸(シャバに外出)する前日、班長に許可をもらってから、
 通帳より小遣いを下ろした。「ナニに使うんだ!」とか 言われ ごま
 かすのに苦労した。
 手を出しているのは、田中(埼玉出身・昭和48年12月退職)
 中央 太田、家主は、右端
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